和綴の作業をしながら

久しぶりに、和綴の作業。
和紙に、手績みの大麻糸。

和紙は自分で漉いたものだが、大麻糸は松本のクラフトフェアで買った。中国の何とか省産のもので、まだまだ手づから大麻を育てて、繊維をとり、糸に績む。そんな仕事がなされているのだろうか。

それにしても、自然の糸はやりにくい。少し力をいれると切れるし、変に筋ばっていたりして撚りづらい。
でも、段々と馴れてくる。それも、こっちの体の側が馴れてきて、すると何とか上手くいく。

ぴしっとはいかない。やわやわと糸の機嫌を聴きながら、やわやわとこっちの手の言うことも聴いてもらう。やわらかく、何となくその形になってもらう。

一般的な機械紡績の糸なら、そんな必要ななくて、ピッピッと思うように動かせる。偶然性とか、あるいは生き物的なところはなくて、技術だけが存在する。

きっと職人といえるだけ修行をつめば、その生物的なところも型通りに征服して、技術によってほとんど意に沿わせることができるのだろうけど、私にそんな技術はないので、こちらも苦しみながら、やわやわと、大体言うことを聴いてもらう。


技術というのは、一個の征服である。
不確定性の征服である。

この世の道具や素材は、生物か、地球からできていて、それを思うように整形する。机とか、皿とか、タイヤとか、人間の思うような形に。そうしてできたものは、大体のところ生き物か地球からできている。中には、大気圏の中に存在する空気やガスだったり、音や光といった波や粒子だったりするのかもしれないけど。



思うに、簡単にできるとか、便利とかっていうのは、効率性において価値があるのであって、実際に簡単にできるようになると、倍の量できるようになる。

自然と人の手由来の糸を使って、一冊の本を作る間に、機械糸を使えば2〜3冊の本ができる。

そこでは糸の感触を確かめたり、切れないよう大事にふれたりするような、無駄な時間はなくて、早くストレスも少なく作業を進めることができる。

しかし、そんなに急いでどうするんだろうと思う。
人が一日につかう紙の量、一年につかうノートの量はそんなに多くない。消費、ではなく、つかう、という話をしているのだが、一月に読む本の量だって、本当に読もうとしたら、そう多くは読めない。

自分にとって、紙は、時々詩を書く分と、手紙を書く分があればいい。
メモやプリントなんて再々生紙とかで十分なわけで。

稼ぐ、となったときに、多い、とか、早いというものが価値をもつようになる。でも、縄文時代とかそうではない時代・場所を考えてみれば、必要以上に多かったり早かったりしても、正直無駄だし、どうでもいいというかむしろ困るだろう。

もちろん今更資本主義社会を抜け出すことなんてできもしないが、片足くらい抜いてもいい。というか、こういう話になるとついつい大仰に資本主義がどうのということを、誰でも考えてしまうが、そんな話はしていなくて、自分が実際にどう生きて、何を大切にするかという話をしている。

簡単にできる、ということによって失ったものと、簡単にできない、ということによって得られるものについて感じたこと。