雑文とも日記ともいえ5

6.11
詩を書き、芸術を愛することを自覚したとき、言い知れない孤独がある。この土地には、師と慕う人も、友と親しむ者もいない。ひとりもいない。それが今、芯に堪えるようになってきた。
理解されなくてもへこたれない。理解されない方がいい。いいものを作るというのは、人にとって受け取りやすいものを作ることではなく、この世界において美しいもの、正しいものを作るということだ。
百年も千年も前の俳諧や歌を受けとった。百年後、残るものは、自分が大衆に受ける人間でないとしたら、本当に美しいものを残すしかないだろう。本当に美しいものなら、きっと誰かが受け取ってくれる。自分のような悲しみをもった誰かが受け取ってくれる。

しかし、それも結局は、自分の知らない誰かだ。残る、残らないも、美しいものには関係ない。この瞬間に消えたとしても、美しいものは美しい。それを惜しむ気持がある。儚く消えてしまうのでは、あまりにも惜しい。

名を残すだとか、百年後に残るものを作るだとかというのは、人の一生を鑑みれば大した意味はない。浮草のような短い旅の途中、その無聊に少しでも堪えるために、人は強いてそう言い、信じさえするのだろう。


6.13
近頃は歌に凝っている、能因集、金塊、信生法師集、永福門院。(勅撰集はオムニバス形式で散漫になりやすく、味わう心持になりづらい。)
少し深く入り込むと、全く知らなかった場所に、こんなにいい歌があったのかと驚く。それとともに、研究者という人たちの労苦に感謝してもしきれなくなる。学生の時分は、枝葉末節を机上で云々するような、実践者でないような感じがしてどことなく厭な気がしていたが、彼らの仕事がなければ、古典作品は簡単に足を踏み入れるような分野ではなかっただろう。

千円も出せば、古典作品のうちでも相当に深いというか、人口に膾炙していないような領域にも手を出すこと容易である。それを自分のように、浅学なままで享受できることの有難さ。
とはいえ、いずれはもっとそのもののあるべき形で味わうようにしたいとも思う。浄瑠璃本や謡本は勉強したからまだ読めるが、近世のものでも他ジャンルとなるとすぐにつかえてしまう。今のように、流通する簡易版を享受しているだけでは味気ないし、先もない。いや、むしろそこに先を感じている。

みずから山道に入り迷うこと。心から心酔した山の中に。


6.14
退屈、無聊、手なぐさみ、日々宵夜所在なく、雨音を聴く、そのような、耳を澄ますような生活を味わいたい。あまりにも時間が足りなくて、無為に過ぎ去ってしまう時の多さよ。

雨に憩う、そんな日々もあったことを思う。

昔、教授に、「〜になる」ことよりも「〜である」ことを目指せよと教わったことを憶えているが、今ではその言葉すらも重石のようになって、身に堪える。「〜である」ということは「常に〜である」ということであり、その限りにおいて「〜でない」瞬間はないことになる。
例えば「詩人になる」、というのは追い求めることで、達成が来るかこないかは半々になるが、「詩人である」ためには自分以外の何物も関係なく、今この瞬間に自ら詩人であればいい。それは理だが、「常に詩人である」ためには「詩人でない」項目要素は通時的に抹消されねばならない。それが一瞬、ひとかけらでもあれば「詩人である」ことは全く毀損されてしまうのではないか。

実際にはそんなことはなくて、詩人も詩を詠む前に人であるのだが、きっとここに他者からの承認をえないことの弱さが露呈している。その承認は幻想であってもよくて、むしろ自己内における他者像は幻想に依らざるをえないので、承認を得ている状態、さらにいえば承認をえていることにする、それですらいいということになる。


6.16
結句、心をなぐさめるもの。古い歌集、俳文、親しい人からの手紙、美しい紙と装丁の本。

人とこころが通うこと、美しいものや経験を愛づること、あこがれ慕うこと。百年、千年前の人と交歓するような感覚、しかしそれは書面の上で、しかしそれは確かな交通でもあり、返り事のないこれは憧れである。しかし、それは慕うことでもあり、ただ少しでも近づくために自分にできることをする。

そういえば学生時代に図書館の廃棄本でみつけた、おくのほそ道の自筆稿本の写真版があって、たどたどしくも読み始めた。あのころは旧字体、変体仮名の当時の書体で読む理由が学問的にはいざしらず、自分の中になかった。しかし、今はここまでしないと日々夜々をなぐさめられないような、切実としたところがある。

大した悩みや苦しみが、今の生活にあるわけではない。先への不安はある、大体全く瑕疵のない日常などないだろう。自分の生きることが、それらを求めている。一旦は、近づく、その途をたどるしかないだろう、たどたどしい目元足元で。