オリジナルであるとは?


今、紙を作っていて思うのは、人の作るものは自然にオリジナルだということ。

例えば、その辺の草を採ってきて、煮込んで漉けば、世界に無二の紙が生まれる。

もちろん人はオリジナルであることに加えて、人にとって価値があることを求めてもいるが、それだけでもわりと興味はもたれるし、その植物がもしある人の大切にしている草木や生活にかかわる草木であれば、もっと大事にしてもらえる。

これだけで、オリジナルで価値のあるものは作れる。オリジナルで価値のある行為が生まれる。

別にこれは人に勧める話ではないし、紙に限った話ではない。
例えば、陶芸における土や、木工における木でも同じことだし、そこには火や水、道具の問題もでてくる。

つまり、ただ皿を作る、箸を作る、という次元、何らのオリジナリティも考えず悩まずに、ただ作ったとしても、そこにはオリジナルなものが生まれている。

しかし、世にある木工品、陶器、漆器、引いては民芸品、、おかしなほどに似たようなものが日本全国に並んでいるではないか。
そこでは、素材の選定・道具や製作の方法・製作体制・習得された技術など、、製作以前の地盤の部分で均一化がおこなれている。(つまり、そこではオリジナルなものではなく、すでに流通している均一的な商品を目指して作られているので、それらが似た顔をしているのは当然のことなのだ。)

これは、工芸的な分野に限ったことではなく、芸術とか表現といわれる分野でも同じだ。

人はそれぞれ違うのだから、その性質、身体、育った環境、生活、土地、全て違うのだから、そこから生まれてくるものはちがって当然である。
例えば、声。
全く同じ声の人というのはいないのではないか、ある人を思い浮かべるとき、その特定性は声の唯一性とつながっている。しかし、これは人によっては、顔といったほうが通じるかもしれないし、匂いや動きといったほうが納得するのかもしれない。自分は人の顔を大雑把な印象でしか認識していないので、似た人にあったとき顔で判断するのは難しいときが多いし、ある人の顔を思い浮かべよといわれてもぼんやりとしか思い浮かべられないが、それぞれ得意不得意があるだろう。(ここにも、ひとそれぞれの特性、向き不向きがある。)

少し話が反れたが、しかし、この世の中でオリジナルであること、オリジナルな表現をすることのむずかしさよ!

それを目指したことのある人は、なんて自分のオリジナルな作品を作ることは難しいのだろう! と思ったことのない人はいないのではないか。

それは、なぜか?
まず、現代の人の生活基盤が、流通経済の上、商品の上にあるので、素材が均質化していること。
教育の基盤が、一般普通教育制度の確立によって、均一化していること。
日々の生活の場所、風景が、建築や土地の造成方法のために、同一化していること。

すなわち、その人格形成、生活、表現の基盤が同じになっているので、そのあらわれも同質化するのは当たり前である。

話し声はみな違うのに、話し方の似た人は世に多い!

そして、ここにはもう一つ、人間の生きる上での戦略が影を落としている。

人間は、数いる動植物とは異なって、後天的な努力によって生存する技術をものにするという性質をもって生まれている。
模倣することにより、言語を憶え、コミュニケーション方法を獲得し、様々な技術を習得する。

つまり、人間の技術・文化・文明は模倣によって形成されている。だから声はみな違くとも、話し方は文化によって同じになる。
中身は違うはずなのに、現れてくるものはおなじになりやすい。

まあ技術というものが、より高度に精錬されてゆくことを求めるのは当然のことで、それが進むと普遍的な技術、普遍的な製品が生まれる。それは土地や人間の違いに関わらず、普遍的に、つまり最も効率よく最も良質な作られ方が敷衍し、ものが作られるようになる。

しかし、それは個々の土地や人間にとらわれないため、その細かな区分としての土地、一人としての人間から遊離している。もう、それは普遍的であるがゆえに、自分の技術ではなく、確かな手応えはそこにない。

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その辺の草を採って、紙を作ることと、オリジナルであることとの結節点について。

その辺の草といっても、その場所の気候や地形、季節、自然環境における植生の差によって、その生活の場、自然がかなり特定の場として限定されるし、紙にする行程でつかう水の水質や水温、含有物、補助剤の種類や方法論によっても紙の質は大きく変化する。

人間も同じではないか?
育った土地や気候、経験も違えば、その身体のパーツも違うので、もともと違う。

今日見た景色は、誰もが違う!

あとはいろいろな社会的な模倣を捨てて、自分が出てくるまで堪えて、時間と努力と怠けの時間を蕩尽すればいい。