ただ在る、何かと比べて ではなく、そのものとして在る。

研修で、長野から栃木へ。

高速を走る間、いい気持になる瞬間もあったけれど、前を後を走る車、トラック、バス、隣りに来たり行ったりする車の数々に疲れていた。碓氷峠を下りると、山道は霧の中で、妙義の巍々たる岩峰も見えず、ただ山麓の集落が光って見えた。

途中、太田の里山を横目に眺める。曽祖父の実家はその山の上にあったらしく、祖母は戦争末期疎開をして、麓の飛行場に落ちる花火のような爆撃をみていたというが、そのどれとかはわからず、ただ横目に流れてゆき、また山間の道へ。

曇り。
曇った空。
栃木ICを下りて、深い谷間の道をとると、深山幽谷という言葉が思い浮かんだ。ゲイリー・スナイダーの詩集『奥の国』という題名も思った。低山の合間を流れる川に沿って、道があり、ぽつぽつと集落がある。それが、全て雨が降るかふらぬかの雲を纏って白く沈んでいた。

道を曲がったとき、谷間の向こうに、ひとつの山がみえた。

山は、ただ、あった!
山は、唯一的なあり方で、それそのものとして在ったが、それは唯だとか独りとかそういう言葉とも関係なく、ただ、在った。
その山は、実際のところ、ただ一つ、独立して聳えていたわけではなく、谷合いの山並につづいて、少し肩が迫り出し、三角の頭ひとつ飛び抜けて、川の曲がり角のところに立っていた。

一つだとか、多くの中の一つだとかとは関係なく、ただ、そこに聳えて、在った。これは何度言っても言い尽くすことはできず、伝わるのかもわからないが、このように何度でも言うしかない。

つまり、人の眼は相対的な見方というものをもっている。ある一つの山を、隣の山や、自分の知っている別の山々と比べて、あそこはああで、ここはあれに比べてこうでとか、そういう見方をすることで世界を弁別することができる。比較というものだ。しかし、実際に何かが存在するとき、比較とは関係なしに、絶対的に一者として存在している。

しかし、日常生活の中で、人は一者としての存在感覚を忘れやすく、比較の中で、相対的な自他評価の中で生きてしまう。だから、その山を見たときに、驚いた。山は、そのそれぞれが、山という総体なのでもないし、いろいろな山がある中のひとつの山なのでもなく、山は、ひとつとして、それそのものとして、比較と主張もなくただ在るのだ!

それで、その谷間に来るまでの車窓にみた、桜や桂の木が早くも紅葉を始めている様や、枯松の銅色、まだ青い木の葉にまぎれている種や実がまざまざと思い出されてきた。そして、今、行き過ぎていく尾根や山肌にも木々があり、岩や土があり、それらが息づいていることを観て、感じた。山は生きているのだった。

驚きながら、研修先の工房へ着く。
ご厚意でたくさんのことを教わる。そして、勇気づけられる。

社長はその工房を建てて20年ほどだそうだが、いろいろな試行錯誤の後をみせてくれた。ギャラリーの作品から、箪笥の引出しまであけて、試してきた数々のものたちを見せてくれた。完成した商品ならともかく、人の、そんな試行錯誤の途中経過や歴史なんて中々みせてもらえるものでもないから、驚いたし、すごくどきどきした。一つの旅、いや、たくさんの旅路の話を聞くようだった。

彼は、人だった。一人の、人だった。
それも、多くの人の中の一人だとか、人と違ったひとだとかそういうのとは関係なく、人、だったのだ。

一般的に、人は比較の中で生きている。横並び一直線の中で、彼はどこが秀でてるだとか、どこが劣っているだとか、どんな性格、どんな経歴、どんな生き方、相対性の中にそれぞれの特徴が現れて、それを持ちながら存在している。
しかし、それは本当は違っていて、ある人は、ただ、一人の人としてあって、かけがえがないとか同じ人はいないとかそういうことも関係なく、人は、ただ在る。

人の特徴というのは、比較の中で顕著になるという人もいるが、特徴はそれそのものとしてあって、比較とは何の関係もなく、それ以前の場所で存在している。

彼は、創造的な活動をしていた。
表現の世界において、例えば天才だとか秀才だとか、あるいは凡人だとか(比較の中で)言うけれど、彼はそのどこにも属していないようだった。ただ創造的な存在だったし、それは何か他を圧してとか異なってというような雰囲気もなく、一人の人だった。人であり、それはそのまま独創的であるということを表しているのだが、その「独」の部分の感じは全くなかった。

うーん、、一つのことを示そうとして、同じことばかり書いているし、実際にその時、自分が感じたことは一つのことに収斂できるものではなく、もっといろいろなことの寄り集まりだったはずだ。

別の視点から書こう。
ある人が、何かを作ろうとか表現しようと思ったとき、それはこれまでの人間社会の中の比較や評価軸の中に生まれる。

いや、もっと根本から書こう。
かつて、太古の人が作るとき、それは自然の中から作られた。自然の中にある素材を用いて、自然の中にあるパターンや美、特質を露わにして、一つの形にする。

どういうふうにつなげればいいのだろう?
自然の中にあるものはそれぞれ唯一物であり、それを用いてつくったものも当然唯一物になる。

人はそれぞれ唯一物であり、その手も唯一物であり、その声やあたまも唯一物であるので、そこから生まれる物や語り、歌も、自ずと唯一物になる。

これは、当然のことである。
そのできたもの同士を比較すれば、似ているとかちがうとかがわかるが、比較しなくてもそれらは元来唯一の物である。


もう、無理に話をつなげるのも無駄な骨折りに思えてきた。一つの論考には一つの結論が置かれるが、結論など必要なのだろうか? あるのは過程なのではないか。過程であるほうがよりよいのではないだろうか? 人は、時間的な存在である限り、過程を生きているのだから。