🐉衣装歴史学 其の一、坂本龍馬 六十一

六十一、

ここで中岡慎太郎について踏み込む、というか歴史学者装って資料追究する訳ではない。飽くまで“衣装歴史学的”に直感的邪推を持ってその道を辿るだけだが。

生い立ち、経歴は省略。功山寺の反乱の時、共に都落ちした公卿を守護していた様子だ。何か踏み込み難いのは、まあテーマの坂本にしろ、一つの事に的を絞って活動していたのか、いや違うだろう、と。かなりの量の“副業”的任務をこなしていた、いや、こなし切れていたかも疑問だが、兎に角よく判らない件を一人一人数多く抱えていた事はみて取れる。故に中岡、公卿達の守護のみに当たっていたのか微妙である。恐らく諸説ある。そしてもっと恐らく、功山寺の反乱に参戦していたか。更に更にの恐らくで、多分資料を厳密に追えば90%方参戦している。何と言っても、京の政変劇及び蛤の御門にも半ば長州勢と心中物で参戦していた血気盛んな男だったのだから。

ただ功山寺にのめり込んで参戦し切れてはいなかっただろう、と当筆者の提言。というのは、元を糺せばやはり最重要任務の公卿守護が主であっただろう。徹底抗戦派の精神的支柱の三条公以下、とあれば徳川恭順派に狙われるのは確実だった。命は取らないまでも、この公卿達を保護して京に安全に帰還頂く為に、狙われただろう。それから護らねばならない事、主命である。

功山寺の反乱は徹底抗戦派の勝利で終わる。長州藩政執行部が徹底抗戦一色となる。この時点でも長州、半ば破滅覚悟の舵切りなのだが、兎に角一致した。

ここから、どうも中岡個人の“主命”の様な物が変わった様だ。

歴史後追いの我々から見ると、“薩長同盟”ありきなものだからそっちの方面に八面六臂するんだろう、と疑いなく。しかし見方を変えれば、公卿の守護の重要任務を外された、となる。そしてそれ以上の重い任務が彼に課された、とそう細かく見よう。

この坂本龍馬追いの論考だが、やっとの事、この幕末最大のバディ、坂本・中岡の話に入らねばならない。

しかし冷たくプレ段階を整理する。

この二人は、この時点まで恐らくほぼ接点はなかった。活動のベクトル、個人思想、全く異なる。仲は良かった、とはちらほら散見するが、何せ“人たらし”の坂本龍馬、あまり誰それと仲が悪かった等の話を聞かない。岡田以蔵でさえ知己があったとか何だか、有名な眉唾話、勝のボディガードを岡田に頼んだ、なる物まであるぐらいで。

坂本は瑞山とは仲が良かった、つまり上下もなく、同輩であった、と。しかし、これは当時の土佐では非常に特殊な事で、坂本以外の男達皆“武市先生”、“瑞山先生”と呼びその教えと思想的指導を拝聴させて頂きありがたやありがたや、な物だった様だ。

“何でこいつが瑞山先生と屈託なく話せるのか?”

皆、そう思っていたらしい。恐らく、中岡も。

中岡は瑞山心酔の若者、そして更にその格上の長州の久坂儀助の心酔者、更に純粋攘夷思想の体現者、真木泉へと、尊王攘夷の道まっしぐらに疾走していた。

それに比して坂本のキャリア…何をやっているのか…勝の所にいたと思えば幕府の海軍操練所に在籍していたり。まあ、容堂主導の土佐一国海軍・海運業強化の流れはあった事はあっただろうが。中岡に坂本の行動を理解・把握する事は無理だった筈だ。

そして年齢も意外に結構離れている。かなり坂本の年下の中岡。

大雑把に考えて、功山寺の反乱が接点の遠いこの二人を結び付けた。薩摩抱えで運用は長州の微妙な闇貿易の船に、“あいつ”がいた。つまり武器の流れの最中に中岡もいた。公卿警護を離れて。

“おんし、何故ここにおるが?饅頭屋はよ?”

“饅頭屋は死んだがよ”

“死んだ?”

“おう、腹かっ捌いて果てた。せんかたなくあしがこん船、預かっちょる”

“そうか…”

小説にしてはならないので、今回ここまで。

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