あしはじめてしょうず

葭始生(あしはじめてしょうず)

北風と太陽。朝と晩の気温差に、脱いだり着たりを繰り返す。季節の移ろいによって左右される装いではあるが、それを縛るのは何も実践の面においてのみではない。その日にその日に合わせたドレスコードを嗅ぎ取って服を選ぶことはたのしい。とりわけ足元は大切だ。

展覧会に行くときは、音に配慮したいのと、長時間立っているので、歩きやすい靴を好んで履くことが多いのだが、2年前、森美術館の「六本木クロッシング2016展」に行ったときは別だった。片山真理氏の作品に対面するに当たり、「こんな平らな靴に甘んじて乗っかてんじゃ気合が足らぬ」という気持ちになってしまい(片山氏が行っていた義足でハイヒールを履くプロジェクトを思い出した)、六本木ヒルズ1階のZARAに駆け込んだ。「ZARAはどこ?」っていう場面、石原さとみじゃなくともあるのだな。ダークブルーのハイヒールを買って履き替え、いざ、いざ。

同じ夏。そのハイヒールを履いて意気揚々と出掛けたのは、森山未來氏の公演「in a silent way」だった。美術館のオープンスペースで行われたそのパフォーマンスは、ふたを開けてみると、演者が観客に割って入る、観客にもその動きに対してどう出るか態度を問われる、演劇とも舞踏ともつかぬ作品だった。せっかく履いてきたハイヒールだったが、裸足で踊る緊張感を同じ床面から感じたいような気持ちになり、そっと脱いだ。小学生の頃にとんだ大なわとびのように、森山氏の持ったマイクのコードが足下を何度もくぐり、ひた、ひた、と冷たい床に足が触れる。抜き足、差し足、忍び足、観衆皆が音を消して息をのみ、演者の呼吸に耳を澄ました。

被服には出来事が蓄積される。鑑賞によって履かせられ、鑑賞によって脱がされたハイヒールは、思い入れが強すぎて他の機会に履くことができず、引っ越しの際に思い切って捨ててしまった。厄介なことに、捨てたことで、ますます忘れられない存在になってしまった。これで供養とさせてくれ。今年の春は、珍しく白い靴を買った。白のオックスフォードシューズ。さて、どこへ連れて行ってくれるだろうか。

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