見出し画像

ハシゴの上のひとりとふたり。 【短い小説 #5】

俺の彼女は、ハシゴの上で寝る。
上、といっても登った方の上ではない。部屋の隅に置かれたヨックモックのシガールの空き缶と、平置きした広辞苑の上に渡したハシゴの上で寝るのである。
ハシゴの上には薄いが密度が高そうなマット、その上に布団が敷かれている。どちらも幅70センチくらいの激狭サイズだが、ハシゴの幅よりはやや広い。
うちに引っ越してきた彼女が持ち込んだその寝床を見て、俺は何も言わなかった。単につっこみどころがありすぎたからだ。

なんでハシゴ?
なんでシガールと広辞苑? その布団、特注?
っていうか、狭すぎない? 身体痛くない?
それよか、なんでそれ持ってきた? 俺と一緒に寝ないわけ?

一瞬でそれだけ思いついたが、口を開きかけてやめた。
俺は職業柄、そのあたりは慎重なタイプだった。こちらのアクションに対してどんなパターンが出現しうるか、無意識に想定してしまう。
が、この件に関して想定できたパターンは非常に少なかった。つまり、俺の理解できる答えが返ってくる可能性が非常に低いということだ。
わからないことを聞いてどうする。
そして彼女は、ハシゴ以外はいたってフツーの、逆に言えば正直あまり面白みのない女の子だった。顔はかわいいがかなり口数が少なくて、こまごまとしっかりしていて、ひとりでも生きていけそうなタイプ。

「あのさ」少し考えてから、俺は聞く。
「なに?」ハシゴの上に枕を置いた彼女が振り向く。
「引越し蕎麦とか……食べる?」

彼女がほんのりとした笑顔でうなずく。その顔を見ながら、彼女はどんな蕎麦が好きなんだろう、と思う。それくらい、俺たちの付き合いはまだ浅い。でもフツーな彼女のことだから、ざる蕎麦かたぬき蕎麦か、そんなところだろうと想像する。鴨南蛮とかニシンそばとかいうタイプではないはずだ。で、結果的にそれはちゃんと的を得ていた。
だから逆に、俺はそのハシゴが少しだけ気に入っていた。

俺は毎朝、仕事に行く。
彼女も毎朝、仕事に行く。
別々の仕事場から家に帰ってきて、顔を合わせれば一緒に食事をすることもあったし、しないこともあった。一緒にテレビを見ることもあれば、別々に本を読んだりしていることもあった。彼女が俺のベッドに入ってくることもあれば、ハシゴに直行することもあった。というかそっちの方が多かったし、本当に眠るとなれば彼女はベッドを出て、ハシゴの上に戻るのだった。
俺たちの距離感は、ずっとそんな感じだった。俺はそれでよかったし、多分そのへんは俺と似てそうな子だと思ったから一緒に暮らす? と聞けたわけだ。
「それじゃあ、おやすみ」
歯を磨いた彼女がそう言って、ハシゴの上の布団をめくる。暮らし始めてしばらくしてから気づいたことだったが、どういうわけだか「これから眠る」というこの時の彼女の顔が、一日の中で一番きりっと引き締まっているように見えた。俺はその顔つきがきらいじゃなかったので、ハシゴに対する印象は引続き良いままだった。

ある晩ふと、夜中に目が醒めて横になったまま、反対側の壁際に置かれたハシゴの上で眠る彼女を見た。彼女はうつ伏せて、顔を壁側に向けて眠っていた。
こうして見ると、本当にハシゴを登ってるみたいだな。
寝てる時までそんなもん登って、疲れないかな。
彼女の後頭部を見ながら、再び眠りについた。

それで翌日の夜、帰って来て彼女の隣に座った時、つい言ってしまったのだ。一緒に暮らしはじめて半年ほど経った夜だった。
「あのハシゴさ、どこか行くためのもん?」
「えっ?」
「いや、昨日の夜寝てるの見てたらさ、なんかそんな気がした……だけなんだけど」
彼女は丸い目で俺を見つめたまま黙っていた。だいぶ丸い目だった。俺はほんの僅かに脇に汗がにじむのを感じる。
「あ、うん。えっと……そうなのかな」
丸い目からいつもの目にもどったあと彼女は「どっか行く……そんな風に考えたことなかったな」と言った。

わたし、同じ夢を見るの。いっつも同じ夢。子供の頃から。
薄暗い空間を、ずーっと果てしなく落ちていく夢。ううん。怖くはないよ、もう。ただすごく不安ではある。ずっとぞくぞくしてるし。
あ、やめてね。分析するのとか。そういうの、やなの。
それでその夢が嫌で、不眠症になったことがあったの。それを治してくれたのが、これ。ハシゴ。
ある時偶然なんだけど、寝る時横に荒縄があって。そうしたら、その縄が夢に出てきたの。綱渡りの紐みたいに張ってあって、わたし、それに引っかかってたんだ、洗濯物みたいに。
それで「これはいいかもしれない」っていろいろ試してみた。でもいまのところ夢に持ち込めたのは縄とハシゴだけ。
それで、ハシゴの上で寝るようになったわけ。

寝る時偶然荒縄が横にあるシチュエーションってなんだよ…とまず思ったが、それは今つっこむところじゃない。俺は自分の慎重さを自分で十分褒めつつ、次に疑問に思ったことを聞く。「夢の中でも、ハシゴは登るわけじゃない?」
「うん。水平に渡してあるハシゴに掴まってる。落ちないように」
寝てる時までそんなもんに掴まってて、疲れないかな。
「でも、そうなのかも。行かなきゃいけないのかも」
「え?」
「今まで、ただ下に落ちないための柵みたいなものとしか思ってなかったんだけど。縄もハシゴも、どこかに繋がってそうだから」
「ああ」
ハシゴを見て考え込んだ彼女の頭の中には多分、夢とハシゴのことしかない。彼女の夢のことだ、俺がああだのこうだの言うものでもない。分析するなっていうのはそういうことだと思うし、現に俺にはどうとも出来ない。
「うん。行ってみる。今日」彼女が引き締まった顔でハシゴを見つめながら、そう言う。
「そっか」俺はなぜかちょっといらっとする。彼女にというか、多分ハシゴにいらっとしてる。

「ねえそのハシゴさ」
「うん?」
「Amazonでも売ってんの?」
「え? どうだろう。なんで?」
「いっぱい買って、部屋中に敷く」
彼女の目がまた丸くなる。
「それ……踏んだら足の裏痛いよ、多分」
「大丈夫だろ」
「つまづかないかな」
「気をつければいいし」
「でも、効果なかったらどうする? 夢の中に持っていけるハシゴが、1つだけだったら?」
「おまえの夢けちくさいな、って言う」
そこで彼女は、ほんのり笑った。俺もなんだか、俺に笑った。



おわり

画像1

一周まわって、テレワークがやや快適になってきたぞ……とちょっとだけ思っていましたが、2日ぶりに家を出たらめちゃめちゃすがすがしいし、食べものでも本でも音楽でもおしゃべりでも得られない何かが確かに得られている気がしたので、やっぱり人間って外に出ないとダメなんじゃな、と細い目になって思いました。(ドラッグストアに行っただけなんだけど)

連休はいつもよりは少し多めに短い小説書きたいな、と思っています。かしこ。



おかしかっていいですか。ありがとうございます。