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すべてがMになる。

というか、なってた。
あ、写真の話です。

あえて誰かのせいにするとしたら、それはもちろんiPhone4のせい。あんなに平らですべすべでカッコいいスマホが、かつてあっただろうか。いやない。今もない。I miss iPhone4。だからすべてがMになったことがきみのせいならば、それはそれでいいんだ。
と、もちろんここまでノリで言ってます。本当は個人的にはあんまりよくない。だからといってiPhone4のせいにするのもよくない。

さておき、当時iphoneに乗り換えたら、画素数がデジカメ並みだったわけです。
同じ頃に使っていたのはGRで、それはそれで素晴らしいカメラなんですが、とにかくiPhoneに夢中になったわたしはカバンの中にGRを入れるのをやめてしまいました。ちょうど、撮影が必須の仕事じゃなくなったことなども、iPhoneのカメラとの仲良し度合いに拍車をかけました。

そんなこんなで、iPhoneXになってもその状態は続きました。
いつの間にか写真を撮ることは完全に日常の動作の一部になり、気がつくと「写真を撮りに行く」ということ自体をしなくなっていました。
忙しくなって余裕がなかったこともなくはないけど、カメラを構えることもないのに「写真を撮りに行く」っていうことが、自分の中で成立しなくなっていたのかもしれない、と今なら思いつきます。

それのなにがだめなの?

それが、個人的にはまずい点が1つだけあったんです。それは、
「写真を撮る」ことが「画像でメモを取る」ことに置き換わってしまっていたこと。

最近PCの中の整理をしていたところ、大量に出てきた写真のデータを見て、ようやくそれに気づきました。

わたしは写真撮影が好きなだけの単なる素人ですが、それでもカメラを構えていた時は「写真を撮る」という意識がありました。

画像1

なんとか、写真にしようという意思を感じる。(個人的に)


画像2

なんとか撮ろうという粘りを感じる。(個人的に)


それが、iphoneだとこうなる。

画像3

ぶれてる! 猫よりレアなのに。5枚とか撮って、全部ぶれてる!
雑かよ!


画像4

これはセントラルパークに時々現れるという非公式エルモ。
っていうか回り込まないとエルモってわからないよ! まさに「撮っただけ」だよ! 怠惰か!
(子供の顔は結構いいけど)

という感じで、iphoneで撮る写真はほとんどが「記憶のとっかかりになればいい」というメモの画像で、実に適当。震える。

そこでわたしは「これはまずい」と、ひさびさにカメラを引っ張り出して、写真を撮りに行ったわけです。
そうしたら、なんということでしょう。
カメラで撮っていても、なんとなくメモっぽい写真になってしまう。
震える。

長年の習慣とは、実におそろしいものだと思い知りました。
リハビリします。かしこ。



おかしかっていいですか。ありがとうございます。