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ミニマリストのミルク皿。 【短い小説 #7】

 ヒトシは「ミニマリストらしい哲学を持たない、ミニマリスト」だ。

 “最小限主義”。“シンプルな暮らし”。“モノを持たずに暮らす”。“日常感の排除”……といった理想のようなものは、ヒトシの頭の中にはない。
 モノが無いほうが心が安らぐようになったのはいつからだったろう。ヒトシは8畳のワンルームに備え付けられた小さなキッチンの、天袋の棚を手探りしながら考える。彼にとってモノが無いということはただひたすら「不確定要素が無い」ということだった。

 モノが無い。
 無いから、何かが倒れたりしないし、壊れたり、無くなったりすることもない。数少ない必需品のあるところは全て頭に入っているから、アイロンが必要な時はクロゼットを開けば間違いなくそこにあるし、本なら全てスマートフォンの中だ。画面の中の仮想の本棚に並ぶ本は、どんな地震が起きても1冊だって倒れない。それがヒトシの心安らぐ世界だった。
 だが今、誰もいないはずの部屋の方でしゃりしゃり、と何か物音がする。ヒトシはそれを耳にして天袋に片手を突っ込んだまま、ふぅ。と小さくため息をついた。

 部屋に戻ると、カーテンをよじ登る焦げ茶の毛玉がすぐ目に入る。キジトラの子猫だ。ヒトシの親指程しかない前足を伸ばして、わっしわっしと必死に上を目指して登っている。そのたびに、カーテンレールのランナーがしゃりしゃりと鳴っているのだった。
「おまえ、どうやって出たんだ? っていうか、なんでそんなところを登るんだ?」
 登ったって、行き止まりだぞ。ヒトシは言いながら子猫を慎重にカーテンから剥がすと、傍にあったダンボール箱の中におろしてやった。子猫はその間中、ニャーニャーと元気よく鳴いた。剥がしたあとのカーテンを見る。グレーの生地から、猫の爪に引っかかれて飛び出た糸があちらこちらで輪になって垂れ下がっていた。
「……俺もちょっと泣きたい」

 ミニマリストと猫は、非常に相性が良くない。
 いや、ヒトシの心の平安と猫は、非常に相性が良くない。
 猫は己のルールで住み着いた家を司る生き物だ。壁で爪を研ぎたい猫はそうするし、植木を齧りたい猫は徹底してひとつ残らず齧り尽くす。転がしたいものを転がし、倒したいものを倒す。
 当然、そういったことはヒトシも知識として知っていた。故に猫を飼おうと思ったことなど一度も無いし、この先も無いだろう。だが、今、いる。
 ヒトシを見つけた猫は、ここぞとばかりにダンボールの中から声を張り上げて鳴いている。その圧力に思わずヒトシは目をつぶりながら「わかった、わかった」と言うと、冷蔵庫へ向かった。

 先程から探していたのは、ミルクを入れる皿だった。というか、その代わりになるなんらかの容器。だが一向に見つからない。自分が使う皿は大きな平皿が1枚とどんぶり1つで、どちらもダンボールと子猫には大きすぎた。何か、空き容器とか空き蓋とかなかったか……とキッチン中を探るも、ミニマル暮らしの部屋にそんなものがあるわけもない。
 ひっきりなしに響く猫の鳴き声は、だんだん大きくなっている気がする。
 まいったな……と思わず手にとったスマートフォンを、ヒトシはまじまじと眺めた。

 スマートフォンにつけていた透明なカバーを外す。長方形の薄い皿、にはなりそうだが、カメラレンズの部分に穴がある。ここを塞げば……と少し考え込むと、ヒトシはおもむろに冷蔵庫を開け、昨日買っておいた林檎の袋に付いていた「20%OFF」のシールを丁寧に剥がしとり、カメラ穴を塞ぐように貼り付けた。
 子猫の入っているダンボールに、20%OFFのスマホカバー入りミルクをこぼさないようにそっと置くと、子猫は勢いよくそれを飲み始めた。

 そうして静かになったばかりの部屋の扉を、早速誰かが勢いよく叩きだす。「にいちゃーん! おれだよ、開けてー!」
 部屋に飛び込んできたのは近所に住む小学生ハルトで、子猫をヒトシに押し付けた張本人である。
「にいちゃん、猫元気!?」
 道端で拾ったという子猫を飼いたいのは、このハルトである。だが連れ帰った家でテンプレの如く「拾ったところに返してきなさい!」と言われ、途方に暮れていた昨日の夕方、折悪しく通りかかってしまったのがヒトシなのであった。
「元気だよ。連れて帰るか?」
「ううん……やっぱりだめだって」
「え? ちょっと待て、俺はおまえが親を絶対説得するっていうから……」
 預かってるだけなんだぞ、という言葉を、振り返ったハルトの顔を見て、ヒトシは飲み込んでしまう。
「がんばるから。絶対説得するから……だからもう少しだけ預かって! お願い!」
「って、言われてもなあ……」
 と、ダンボールの中から再び子猫の声がニャーニャーと響き始めた。
「ほら、猫もお願い!って言ってるし」
「そんなばかな」
 ハルトと一緒に箱の中を覗き込むと、子猫が上を見上げて鳴いている。
「ああ、もっとミルクくれって言っていってるんだろ」
 ヒトシはスマホカバーにミルクを継ぎ足してやった。鳴き声が止む。
「ほら。動物ってのは、そんなもんだ」
 ヒトシはベッド代わりのマットレスに寝転ぶと、カーテンレールを見上げた。ハルトは口を尖らしてそんなことないもん、と言いながら、ダンボールの中の子猫を見つめ、撫でたり声を掛けたりしているようだった。

「ねえにいちゃん、この皿薄すぎない? ミルク全然入んないじゃん」
「しょうがないだろ。スマホカバーなんだから」
「お皿は? ないの?」
「ないよ」
 言われて、ハルトは初めて部屋の中をきょろきょろと見渡す。
「この部屋、なんもないね」
「そういうのが好きなの。猫もいないほうがいい」
「でも、かわいいでしょ?」
「だけどこいつ、カーテン登るんだぞ?」
「おもしろいじゃん」
「意味がわからん」
 意味? とハルトは首を傾げる。
「……あれ? “20%OFF”って書いてある」
「カバーにあった穴を塞いだの。シールで」
「っていうか、スマホカバー、いいの? もう使えないんじゃない?」
「ああ、まあ、いいよ」
 そのヒトシの言葉に、ハルトの顔が明るくなる。
「なぁんだ、にいちゃんも猫、好きなんじゃん結局」
「好きでも嫌いでもないよ。でも一緒に暮らすのは嫌」
「とか言って、スマホカバーまで猫にくれちゃってるじゃん。やさしい!」
「やさしい、じゃねーよ……なあおまえ、本当にちゃんと説得できるんだろうな?」
「できるし、するよ! でも案外、にいちゃんが飼ってもいいのかもって気もしてきた」
 はぁ!? と思わずヒトシは身体を起こす。ハルトは喋りながら、いつの間にか玄関で靴を履き始めている。
「おい、俺飼わないからな?」
「うん、わかってるよ。でもなんだかちょっとお似合いな感じするよね」
「なにが」
「その猫と、にいちゃん」
「やめてくれ……」
「ねえ、猫の名前さ、20%OFF、とかどう?」
「長げぇよ!」
 ハルトは笑いながら「それじゃ20%OFFのこと、よろしくね」と元気よく帰って行った。昨日は自分だってにゃーにゃー泣いてたくせに……と呟きながら、ヒトシは冷蔵庫に牛乳パックを戻す。静かになったダンボールを覗くと、カラになったスマホカバーに突っ伏して眠っている子猫が見えた。



おわり


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しまった、図らずもまた猫が出てきてしまいました。次は出さないように気をつけよう。

そしてうっかり随分間があいてしまいました。仕事でシナリオ書き始めると、どうもそっちに何かが削り取られるような…例えばカロリーとか…
でもこうしてここで書き始めると、削られたものが癒やされるような気がするから、やっぱり書くのはいいなと思います。




おかしかっていいですか。ありがとうございます。