高貝弘也詩集『紙背の子』(思潮社)書評 「愛しい光をのせた言葉の舟を追って」

 淡雪を思わせる純白の函から、黄みがかったやはり白い本を取りだす。
 通常の単行本にあるような表紙がなく、背の糸も露わになっている。その無垢な姿は何かに大切に包まれていたものを連想させる。たとえば、苞に守られた蕾、おくるみのなかの赤子などを。

 いま外界の光にさらされたばかりのいたいけな存在としてこの「子」は現れた。


子が、紙背からのぞきこんでいる
切れ端が孕(はら)んでいる かげ
それは 露出しない衣
しろいかみ ち
    ああ しわくちゃなかみ
国分寺崖線で 春
しゃぶる摘草(つみくさ)を、そそりわけて
言葉の魂(み)か
息ふきかけると ふくらんで
卵子のような
その雀斑(そばかす)をおさえながら
ーーあなたはかわらず 生(き)のままで
喜びも、悲しみさえも
ーー死んでも 熟(う)れてゆきますように
                                   

「紙背の子」より

 紙背からのぞきこむ子とは、流された子、と他の詩篇で記される子のことだろうか。なかなか姿を見せないこの子の居場所を手探るように、詩人は柔らかな息のうえに文字を丁寧に重ねてゆく。

 本書には、何も書かれていない白紙の見開きが何か所もある。とくに「紙背の子」という同じ題をもつ複数の詩篇の前後と途中に。人の生から外れた、空白の時間の延長であるような白い紙には前後のページの文字が薄く映っている。それは紙の裏からのぞいている子の影ではないか。

 表には現れてはいないけれど、つねにそばにいるはずのこの子は、詩集のなかで「未生の芽」とも表現される。この言葉は、子宮に宿った人の命が胎児になる前の状態を指す「胎芽」という一語を思い起こさせる。

 未だ定まらないものは何にでもなれる。未生の芽は人と植物と水と光のあわいを漂い、紙という物質は子の面影を包む葉になり、詩集全体を浸す白という色は青や緑や甘い濁りを含んだ豊かな現象となって発光する。
 「無性のかげ」(「さみしい」)に触れる言葉自体もまた、水際で揺れる幼芽のようだ。

 どの詩篇も各連は短く、ページを俯瞰すると、たくさんの笹舟が浮かんでいるようにも見える。一語一語の音の余韻や色の滲みは他の連の行とも響き合いながら、生き物の手触りと温みを伴ってこの瞬間に留まり、また流れてゆく。あわいに生きるもののさみしさを、写す、というよりも私たちの身体の奥へと移すように。

 詩行の多くは虫や花や魚などの小さな存在たちの気配を繊細に掬い、静かに流れるが、その静かな波はときおり乱れ、「愛してる、あなたを愛している」、「――死んでも、あなたを忘れない」、「――いかないで……」というような悲痛な声もまた息から零れおちる。

 それは、想う相手と自分自身をもしずめる「鎮魂」という言葉を呼び寄せたとしても、その一語でこの一冊の営みをかりそめにも括ることはできないほど、「わたし」と「あなた」の内も外も、今もなお、深く溶け合っているということの現れではないだろうか。

 「あなた」の命の神秘と出会う場所として、本書は、読む私の前に現れつづける。決して消えはしない、かそけき「言葉の魂(み)」を、その白肌にいつまでも宿しながら。


高貝弘也『紙背の子』(思潮社)



この書評は「現代詩手帖」2020年12月号に掲載。
転載にあたり改行位置などを修正しました。
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