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4月、愛知へ行った日記(3/3)

4月24日(火)の写真。
午後4時ごろ、名古屋市科学館を出ると雨は本降り。

すぐにホテルへと向かう。
部屋で荷物を整理して、ゆっくりくつろぐ。
外は雨。不要な散策はせず。

翌日、名古屋の電車内で聞きかじった会話。土地土地のひとの容姿について。主に女性の見た目なのかな。会社の同僚らしき男女ふたりがそばで話していた。男性が会話に積極的で、女性のほうはもっぱら聞き手にまわっていた。「東京のひとはテレビに出るような美人か、テレビに出るような不細工か、二極化している。広島や福岡はかわいい子が多い。南の方が女性はかわいい」みたいな、たまたまとなりにいた知らない男性による、主観100%の与太話をなぜかおぼえている。

こういう話にわたしは乗れない。じぶんに向けて言われたわけではないから、乗る必要はないのだけれど。そんなことないと言いたくなる。わたしも対抗心を燃やして主観100%で言わせていただくと、女性はみんなかわいい。男性もかわいい。そのどちらでもないひと、どちらでもあるひとも、異物としての美しさを放つ。「異物」とあえて記す。「エリート」とも言い換え可能。フラットに均す必要はない。不細工だって不細工なりにかわいい。「エレファント・マン」と呼ばれたジョゼフ・メリックもかわいい。バレバレの嘘をつき続ける政治家もかわいい。刑務所から脱走した囚人もかわいい。その囚人の犯した罪に、よってたかってその場しのぎの益のない解釈をほどこすワイドショーの司会やコメンテーターたちもかわいい。脱走した囚人が捕まる瞬間の映像を見て、「もうちょっとでかわせたのに!惜しかったね~」と言いながらお茶をすするうちの祖母もかわいい。

要するに、総じて人類はかわいい。みんなジャイアントパンダに見える。わたしの眼球にはパンダ・フィルターが装着されている。むろん平成不況や、ゆとり教育のせいでこうなった。時宜にかなった感性である。しかしパンダはクマ科だ。力も強い。うかつに近寄ると危険なところもある。かわいいからといって、油断はできない。

これが現状のわたしの目にうつる人間全般の評価だから、あなたの価値観はとても狭苦しく感じちゃって聞いていられません。と、ここで密かに反論しておく。もっとボケボケの目で人間を見よう。広く透き通った大きなボケを、ください。つばさがほしい。

4月25日(水)。金神社へ行きました。

こがね、と聞くとネーネーズの「黄金の花」を思い出します。父がカラオケで絶対に歌うやつ。94年のリリース直後からなんだか知らないけど、父がずっと歌っているやつです。でもさいきんは聴かない。カラオケにも何年も行かない。いつだったか、荻上チキさんのラジオ番組Session22で、ネーネーズの曲が流れて、じんわりと沁みるものがあった。乾き切ってひび割れていた身体の内側の襞から、三線の音色とネーネーズの歌声が滲んで、さらりと浸透した。あれは「黄金の花」だったか。

素朴で純情な人たちよ
きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで
黄金の花はいつか散る

わたしが父に抱いているイメージは、この歌詞とはギャップがあって、ふしぎな感じがする。「素朴で純情な人たち」へ、素朴に呼びかける。ものすごく素朴が過ぎて恥ずかしいくらいの、ことばを歌う。こんなことは思っていてもふだん表に出せない、恥の感覚があるのだろう。わたしにもある。「世の中カネじゃ!」と思いつつも、そうではない特別な価値を求めてやまない。ガキくさくて、ひどく恥ずかしい。「素朴で純情」だなんてもう言えない、薄汚れた心象の日々を歩んでいても、なお。

黄金で心を捨てないで
本当の花を咲かせてね

捨てたっていいだろう。儲けに腐心しても。「本当」ってなんですか。お金でまわる社会の中で生きるにあたってお金がほしいのはあたりまえだ。もう咲かない腐った花にも美しさはある。などなどと、ひねくれてすべてに反発したくなるが、素直に微笑んで「はい」と言えたらどんなにいいだろうとも思う。

お金に関することに限らず、あらゆることについてシンプルに判断したいと願う反面、そうではないこのような内心の複雑さもぬぐえない。刹那にかき消える会話のことばではこのような複雑さは表現できない。だから、書いている。たぶん、ずっと。

どんなものにも疑いをさしはさんでしまう。審美的にも論理的にも最適な、すんなりと受け入れられる説明をじぶんに求めつづけ、あーだこーだ言いながらも、なんにも納得がいかないままに一生が終わる。そんな気がする。

答えのない宙吊りの問いと、問いのない宙吊りの答えを架橋しようと、狭間のことばに佇みながら、ついには問いにも答えにも結びつかず半端なままでいる。どこへもぶつからない。うつろな間隙を縫ってすり抜けるように、生きているこの時間を通り過ぎる。それもいいかもしれない。宙ぶらりん。

金神社でお金を洗う。10円玉。お願いです、5,000兆円ほしい。とは言わない。ふつうに稼げますように。世の中ね、顔かお金かなのよ。仕事がほしい。

となりでいっしょに歩くひとから、いい音のする、お守りを買ってもらう。ありがとう。うれし。ポケットに入れて、いい音を響かせながら歩く。シャラン。ふたり。天気が心配だったけど、朝から雨は上がっていた。

これは帰り際に撮った写真です。この村が閉まる午後5時過ぎ。夕景がこれから始まるきざしの青空。あるいは、夕空の突端。明治村。けっこうな山の中にあります。愛知県犬山市。明治村までのバスには「岐阜」の文字。県境にちかい。

犬山駅からはモンキーパークや国宝の犬山城へも行けます。明治村もふくめた犬山の三つの場所すべて、わたしが幼稚園児のときに親がつれていってくれたらしいけれど、見事におぼえていない。記憶はなくなる。変わる。薄情なもの。ときに、この薄情さが救いにもなる。産声をあげていたときの恐怖をいまだに覚えていたら、生きていられないでしょう?

さようなら、じぶん。はじめまして、世界。

明治のカレー。越しの明治村浪漫麦酒。越しの水。という物理学的に言うところの三角関係。すなわち、ときめきトゥナイト。こうして第六感コンピューターのスイッチは押された。なんの話だ。

昼間からビール。1本だけ頼んで、グラスはふたつ。分け合う。明治のカレーは素朴な味がしました。わたしの思う日本のカレーのイメージそのもの。食べやすい。甘めだったかな。おいしい。過去の味がする。なんとなく。現在の味ではない。未来でも。インドの感じもしない。ビールもおいしい。

明治村内にある、帝国ホテルの中から撮りました。ここの玄関はフランク・ロイド・ライトが設計した、いわゆるライト館を移築再建したもの。ライト館は1923年(大正12年)の竣工。それがたぶんそのまま再現されている。

ちゃんと玄関の写真を撮ればよかったかな。時間があまりなくて、早足でした。ブログを書くために行ったわけではないので……。ここに来た目的はとくにありません。目に焼き付けるだけ。呼吸がしたかっただけ。約束をしただけ。またゆっくりと観たい。ひとりで行っても丸一日たのしめそう。

蒸気機関車に乗りました。
汽車。SL。煤の匂いがただよう車内。
動力源が熱を上げて動く。運ばれる。揺れる。

逢いに行くわ 汽車に乗って
幾つもの朝を 花の咲く頃に

「汽車」から連想するJUDY AND MARYの「KYOTO」。ここはAICHI。INUYAMA。MEIJIMURA。となりはGIFU。窓を開けたら、煤が入ってきそうだから閉じておく。春の夢はおあずけにして出発。

頭ふるわせて
メラメラ燃えあがる
いろんな コトバの
無駄な意味 切り捨て
いつまでもSLで走ろう

走る走る。「SL」から連想する電気グルーヴの「ポポ」。トンネルをすりぬけて、レールをきしませながら。トンネルはなかったかな。この曲をはじめて聴いたのはフジテレビのポンキッキーズ。幼稚園へ行く前に見ていた。音楽は忘れない。なんでだろう。アシッドな音に揺られ、SLが走りだす。

「黄金の花」、「ポポ」は94年。「KYOTO」は95年。わたしの頭は90年代の成分でできているのか。いや、たまたまだよ。「憧れのハワイ航路」だって祖母と歌う。「Cho Wavy De Gomenne」だって歌える。最近流行りTrap。もうこれも1年前か。あ、『ときめきトゥナイト』の連載が終わったのも94年。

えっと、すぐに横道へ逸れたがる頭の方向を戻して……。よく晴れた明治村をお散歩。歩いて正門まで。そしてバスで犬山駅まで。電車を乗り継いで名古屋駅まで。帰路。

すっかり暗い。名古屋駅。ビルの上に光るのは、お月さま。ダイアモンド富士みたいな。狙ってはいません。あとから気づく。たまたまこんなんなっていました。

さいごにちょっとだけカラオケ。夕食と携帯電話の充電を兼ねて。「今夜はブギー・バック」をふたりで歌っておしまい。これも94年だ。でも、わたしがさいしょに選んだのはオリヴィア・ニュートン・ジョンの「Have You Never Been Mellow」だから。これは75年の歌だから。頭が90年代に支配されているわけではありません。たまたまです。

オリヴィア・ニュートン・ジョンの曲は、科学館のプラネタリウムでさいごにかかっていたからです。名古屋市科学館のプラネタリウムは、リラックス効果が凄まじいです。選曲もよくて。半端なく凄まじくリラックスできます。

午後8時過ぎ、いっしょに歩いていたひととはお別れ。バス停までお見送り。見えなくなってから、「ありがとう」のLINEを書いて、そのまましばし眺め、画面を消す。送らなかった。わたしの乗るバスは3時間後くらいだったので、駅の周辺をうろうろする。コンビニで、ちらっと未送信のLINEを読み直す。

きょうはありがとう。
10年後の“いま”。いまが、いまのまま続くのかな。いや、“いま”はずっと続く。日は過ぎても、“いま”はなくならない。きのうときょうにあった“いま”も、100年後あなたもわたしもいない“いま”も。同じ、いまなのだと思う。ひとはどんな未来にも、どんな過去にも生きられる。だから、すべてが“いま”になる。そう思ってる。またお会いしましょ。いまのうちに。

世界観がまんまトラルファマドール星人やないかーい!みたいな的確なつっこみを入れてもらえないと、こんな天然ボケはこっ恥ずかしいから、やっぱり送るのやめました。それに、LINEに書くには長い。代わりにここへ載せとこうと思って、メモ帳にコピペして、またうろうろする。ネタだ。わたしの存在そのものがネタ。名前の末尾に(笑)をつけてください。

夜間はまださむい。うろつきながら、ふるえていた。そんなこって、あっという間に夜行バスの時間。すみやかに乗車したのち、座ってねむる。小学二年以来の名古屋ともお別れ。休憩で立ち寄るパーキングエリアはトラックだらけ。深夜。おつかれさまです。跳ねたり伸びたりストレッチをして、またねむる。

朝の5時過ぎ、バスタ新宿に到着。へろへろになりながら見た早朝の青空。夜行バスしんどい。バスのステップからこどもみたいに飛び降りると、ポケットに入れっぱなしだったお守りの音が鳴り響いた。シャラン。いい音。これをビジネスバッグに忍ばせて、就職活動をしよう。ひと通り身体を伸ばしてから、ひとがまばらな新宿を行く。







にゃん