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金網にモテたい。それはいいとして

金網についていたヘアピンを激写。洒落っ気のある金網です。ちょっと印象が変わったよね。すごくいいと思う。かわいい。素敵だよ。モテる男性は金網のおしゃれも褒めます。ホットドッグ・プレスに「金網を褒めろ」って書いてあったから。金網にモテます。あんまり人間にモテたい気はない。金網にモテたい。

それはいいとして。
なんとなく思ったことをひとつ。

ブログなんか書いているひとは「ネタが尽きる」とよくおっしゃります。

わたしにもかつてあったような感覚だけれど、いまはあんまりイメージがわからなくなってしまった。この日記のネタは尽きません。生理的な習慣だから。おなじことをことばを変えて何回も書いているのかもしれないけれど……。まったくおなじことばを繰り返し意識的に書き付けているときもある。べつにいいと思う。

馴染みの頻出フレーズが出た場合、「ヨッ、待ってました!」みたいな相槌を入れていただければたのしめます。でも、たぶん、そんな読み込んでいるひとはいない。と思う。歌舞伎の見得を切るような感じで同じことばを打っている。その場で、その都度のしっくりくるものを探しながらも、「しっくり」がたまたま重なる。その重複にきっと自己同一性が宿っている。流れつづける時間の中にも、おなじものがふっと浮かぶ。しかしそれもまた、もとの水にあらず。同じに見えてもちがう。幻視。固定はできない。しない。日記は流れなのです。久しくとどまりたるためしなし!

「ネタが尽きる」と言われるときのイメージはたぶん、流れではない。止まっている。固定化されたみずからの内にあるストックが尽きる、貯めてあるネタを小出しにして、それが減ってゆくようなイメージでしょう。おそらく。身を削っているのかな、おつかれさまです。

流れなら、やまない。生きている限り。死んだってもしかしたら終わらないのかもしれない。死んでみないとわからない。死んだらあともどりはできないけれど、1日だっておなじ。過ぎてしまえば、あともどりなんかできない。わざわざじぶんで削らなくとも、生きているこの身は知らず知らずにゆっくりと削られている。いまのところの、この世界では、そうらしい。いや、わたし以外のひとは、タイムリープしているのかも。わたしはなにも知らないモブキャラ。

モブキャラは生きていても、死んでみても、つなぎでしかない。つなぐ、つなぐ。この世の主人公はどこのどいつ人だ。勝手に変なものをおっぱじめやがって。これ物語なの?どうして宇宙なんかつくったんだ。どうして地球を丸めたんだ。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ。わたしはなにも預かり知らないけれど、せめてハッピーエンドでお願いしておきたい。不承不承、つないでやっから。起承転結なんかない世界でほんの束の間だけ、のっぺりと生きて、わけもなく流れる。老いる。死ぬ。わたしがいなくなっても、この場所はありつづける。何億年先も。それがたぶん自然な、あらがえない摂理。でも、それだってあらがってみせるのがことばだし、想像力だし、時をかける少女なのです。

なんのために生まれて、なにをして生きるのか。てめえの知らないところで勝手に始められて、わけもわからず勝手に終了しちゃう人生。始めと終わりは、他人のものだ。やるよ。だけどそのあいだは、わたしがわたしでいられる期間でもある。

わたしが死んでから 伝記を書くひとがいても
これほど簡単なことはない
ふたつの日付があるだけ——生まれた日と死んだ日
ふたつに挟まれた日々や出来事はすべてわたしのものだ


フェルナンド・ペソアの詩。「手放す」ということをさいきん書きました。「わたしのもの」なんてない、とまで書いた。でもほんとうはすべて、わたしのものなんだよ。ここはわたしだけの世界ではないことも、心得つつ。「わたしのもの」なんてない、ということばも、わたしの認識に過ぎない。ちっぽけなもの。絶対ではない。そうではない他者のことばも、知りたいから。固定しない。流れる、流れる。その流れに対してことばたちが、勝手にあらがって、不随意につながるさまを眺めていたい。

抵抗が人間の文化を、あるいは個人の自由をつくるのだと思います。レジスタンス。底にある原理はそうではないかと、生きている肌感覚としてどうしても思える。自然さへの抵抗。不自然な人間たるものの営為としての。わたしの自由は、度し難い諦念と、その度し難さへの抵抗のあいだに宿っている。この尽きない流れに棹さすように、ことばを留める。思い出さなくても大丈夫なように。未来で待ってる。だれかへつなぐ。





にゃん