見出し画像

幼児退行者


1.はじめに

スーパードルフィー(SD) 「紗耶」 (創作造形©ボークス・造形村)

 唐突にわが家のスーパードルフィー(SD)、「紗耶」ちゃんの魅力を語ろう。本記事は読み手のことなど微塵も考慮せず、したがって何の利益にもならない完全なる妄想の自己完結型自由作文である。

2.魅力

 「紗耶」ちゃんについて、ボークスニュース(注1)で偶々掲載されているのを見て一目惚れした。所謂「ドストライク」であった。脳内に衝撃が走るのが分かる、いつか必ず「お迎え」(注2)すると決めた。
 実際、お迎えしてみて大正解、とても満足のゆく「お迎え」であった。まだあどけない少女の姿態にやや吊り上がった猫目、そして、幼いなかにも時折見せる清冽な哀調ともいうべき大人びた表情、その魅力は枚挙に暇がない程である。可憐さに至っては筆舌に尽くしがたく、もはや言語は不要、ただひたすら愛でるべき存在である。
 また、「紗耶」という名前も予め決めておいた。「紗」(注3)は「薄い絹織物」を意味し、「絹織物」はしなやかで強く美しい光沢を放ち、他方で「優しさ」や「儚さ」などの繊細さも併せ持つ。
 「耶」については、キリストを表す「耶蘇」(イエス)や仏陀の母マーラーを表す「摩耶」、日本神話における「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」などそれぞれの宗教で重要な人物に使われている字であり、聖性や慈悲深さが表象される。このような美しさ、気品、可憐さ、優しさ、儚さをもったドールでいて欲しいことから「紗耶」となった次第である。
 そして、希望していた「お迎えセレモニー」という儀式も執り行わせていただいた。どのような儀式であったかは詳述しないが(詳細は拙稿参照のこと。)、たいへん厳粛な雰囲気の下、ドールに生命(魂)が宿る瞬間に立ち会った。そこには確かに「ヒエロファニー」(聖体示現)が極められていた。

3.関係性

 さて、惚気が過ぎた。ともかく、ドールオーナーにとってドールは目に入れても痛くない存在なのである。私など紗耶をはじめお迎えしている数体のドールの声すら想像し、脳内で再生できる程である。
 では、オーナー、専らドールおじさんは自己にとってドールをどのような存在と考えているのだろうか。ドールとドールオーナーとの関係はオーナー個々人のドール観、すなわち「ドール哲学」に因る。「パートナー」、「娘」、「自己の分身」、「人間同士の関係では規定できない特殊な関係」、「ドールはドール、それ以上でもそれ以下でもない」(注4)などなど。
 「それが貴様の性癖」と言われればそれまでであるが、私はその小さいサイズ(1/3)や着せ替えなどオーナーが面倒をみる必要性の影響もあってか、特にSDの紗耶は愛しい「娘」のように思えてくる。前記のお迎えセレモニーではパートナーと宣言されるが、脳内で紗耶がどんな女の子なのかキャラ設定している間に知らず知らずのうちに娘のような役割を与えてしまったのかもしれない。
 ところで、「娘」そのものではなく「娘のような」という表現になるのは、当然ドールは人間そのものではないからであるが、 実はこの当然のことにドールとオーナーの関係性の本質がみえてくる。
 ドールにどのような関係性を見出すかはもとよりオーナーの自由であるからオーナーは時や場所、目的やその手段によってドールとの関係を自由に解釈することが許容される。それゆえ、「ドールと人」との関係は「人と人」との関係のように形式的画一的には判断できない性質のものであると言える。
 従って、ドールには「娘」などの役割は固定されない。私の場合、娘のように思えるときもあれば、パートナーのように思えるときもあるということである。ただ、娘と思える時間が最も多いゆえ、主たる関係性は娘となるに過ぎない。
 ドールは人間ではない。しかし、人でもあり、ドールでもある。また、大人であり、子供でもあるのだ。

お迎えセレモニー後の紗耶。
スーパードルフィー(SD) (創作造形©ボークス・造形村)
イメチェンさせた紗耶。こちらの方がしっくりくる。
スーパードルフィー(SD) (創作造形©ボークス・造形村)
最近の紗耶。お迎え時より幼くなってきているのがお分かりいただけるであろうか。
スーパードルフィー(SD) (創作造形©ボークス・造形村)

4.父親

 私のように仮にドールを「娘のような」存在と規定した場合、相手が「ような」であるから私の役割はさながら「父親のような」ものであろうか。ここでも父親そのものではないために「ような」という不安定な役割を演じることとなるだろう。
 確かに、ドールおじさんの私にとってドールは単純に「かわいい」だけでなく、まだ未成年の娘のように守りたくなる父親的後見的(paternalistic)心情が強い。
 しかし他方で可憐な美少女をガラスケースに閉じ込めて、ずっと「鑑賞」していたいという身勝手な気持ちもあって、この矛盾した感情が奇妙に両立する。
 そんなことを考えながら、先日何となく澁澤龍彦の「少女コレクション序説」をペラペラと捲っていたら、ある箇所が目に留まった。以下、当該箇所を引用する。

 一七世紀の大哲学者デカルトが、その娘の死をふかく悲しんで、精巧な一個の自動人形を作らせ、これを「わが娘フランシーヌ」と呼んで愛撫し、箱におさめて、どこへ行くにも一緒に連れて行ったという伝説から思いついた命名である。
 もっとも、このような人形愛を語る場合、父親は必ずしも現実に父親である必要はない。(中略)むしろ現実に父親たることを好まない、狂気じみた一種の幼児退行者的ナルシストが、みずから現実の父親たる立場を拒否しながら、架空の父親に自己を擬するメカニズムを、私は「デカルト・コンプレックス」と呼びたいのである。

澁澤龍彦 「少女コレクション序説」より「アリスあるいはナルシシストの心のレンズ」 中央公論新社 1985 p41〜

 誰もが知る不朽の名作「不思議の国のアリス」の作者、ルイスキャロルもこのようなコンプレックスを有していたようである。
 彼はカメラ草創期のまだ珍しかった頃にいち早くこれを入手し、およそ300人もの少女の写真を撮り続けた特異な人物で、少女の母親に再三諌められても止めようとせず、困らせていたという。
 被写体の少女の衣装もその時々で変えていたようで、現代のコスプレと言っても良いかもしれない。さらに、水着や裸体も撮ろうとしたこともあったとか。さすがにほほ断られたようであったが、数点ほど少女の裸体写真が処分されずに残されているという。
 このように膨大な数の少女を撮り続けたのも理想の少女を完遂せしめんと希求する熱意であった。作品に登場するアリスはいわば理想の少女だったのだ。
 現在でも小児性愛者(ロリコン)の疑いがかけられているルイスであるが、その真偽はともかく、ただのロリコンというだけでは出版から150年以上経過して今なお世界中で読まれ続けている傑作は生まれなかったであろう。
 実在しない架空の美少女アリス。彼女は「人形」に相違ない。そして、ルイスはその「父親」であった。
 さて、美少女の多様な姿の写真を撮りまくるという行為は何かに似ている。そう、ドールおじさんのドール撮影である。理想の美少女を希求する点はルイスと全く同じではないか。
 ドールおじさんはしばしば理想の美少女を完成を目指して衣装なども含め決して安くはないドールをお迎えし、これまた莫大な費用をかけたカメラ機材で撮影する。
 要は「拗らせて」いるのだ。オタクがよく拗らせていると表現されるようにやはりドールオーナーもどこかしら拗らせているのだ。彼らは社会的には役に立たない趣味嗜好に対して凄まじい熱意とパワーを使い、惜しみなく資金を蕩尽する。
 ドールおじさんは親バカであると同時にバカ親なのである。

 
 やれやれ、これだからドールおじさんは。


5.脚注

(注1)volks社から定期的に会員に送られる新商品やイベント等の情報が掲載された定期刊行物のこと。
(注2)ドールを購入すること。買うとは言わないのである。
(3)私のドールは「紗」で始まる。ドルフィードリーム(DD)に紗羅、紗那の両名がいる。
(4)ドールを溺愛するタイプのオーナーを「ウェット」、ドールはドールとして客観視するタイプのオーナーを「ドライ」などと言う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?