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こんな話がある

神への真の敬意を示す方法は、神の存在を無視して道徳的に振る舞うことだ。

デイヴィッド・ヒューム

 こんな話がある。↓

 「聖王」と呼ばれた偉大なるルイ9世が十字軍を率い、聖地エルサレムを奪還すべく遠征を開始した。その途中での出来事である。彼は右手に火を、左手に水を持って彷徨っている老女に出会う。彼は訝しみ、何をしているのか老女に尋ねた。
 老女は「火は天国を焼き尽くすためのものであり、水は地獄の火を消しさるためのものです。天国で受ける報酬への期待や、地獄での恐怖から善を為すのではなく、ただ、神への純粋な愛によって善を為すことを望むのです。」と言った。


 以上が「こんな話」である。
 なるほど、老女は天国も地獄も観念的に無意味化させてしまっており、その点で無神論的である。しかし、信仰自体は否定していない。むしろ徹底してストイックに善行を積むことのみをもって神への純粋な信仰を貫こうとしている。
 ここには、神に対し一切の見返りを求めないという己に課した厳格な規律を遵守する態度が見られる。

 さて、ある時ふと、この逸話を思い出した訳だが、これを契機としてある現象がこの逸話と結びついた。それは、アイドルだのメイドさんだのキャストだの(以下、「アイドル等」という。)を追い求めるオタク(としておく。)の態度である。

 読者諸賢におかれては、以下のようなオタクをお目にかかったことはないだろうか?

 アイドル等を「神」だと勝手にみなすオタクの中には、「ただ純粋に甲ちゃんを応援したいだけです。甲ちゃんが喜ぶ顔が見れたらそれだけで満足です。」という者がいる。つまり、喜ぶ顔以外は何も見返りは求めないという事だろう。その喜ぶ顔のためなら、彼らは時間や労力の外、いくらでも蕩尽することを辞さない。
 それ自体は大いに結構だが、これが真実であるならばいかなる不当な目に遭っても耐えうるはずである。イエスとその弟子達への権力者からの迫害を見れば分かるように、信仰なるものは真摯に向き合えば向き合うほど不当な扱いを受けやすい。これを引き受けた上でそれでも信仰を貫徹するときに宗教の崇高さが浮き彫りになるのである。 
 なぜなら、信仰は何かの手段ではなく、それ自体目的とされるのであって、見返りとは無関係だからである。

 推しを応援したいだけと聖人君子のように宣いながら、あれだけ貢いだのに不当な扱いを受けたとしてスネてしまうオタクには何らかの見返りを求める姿勢があったのだろう。このような者は真の「信者」とは到底呼べない。
 大抵本人の思い込みに過ぎないのだが、例えば特定のオタクだけと仲良くしている、自分とはお話してくれない、リプくれない、何か嫌われてる、放置された等であろうか。
 そして、一方的に嫉妬して、キレ散らかす、出禁になるようなことをする、不貞腐れて他界する、ネガティヴツイートをする等、これらの態度をストレートに出せばその信仰は口だけのウソということになる。

 「神」とみなすのは勝手だが、その前にアイドル等は生身の女性である。この場合、彼らは「限界オタク」、「厄介オタク」と呼ばれ自ら「背教者」と成り果てる。



 稀にこういうオタクを見る。


おしまい。

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