【小説】感情X27

小説のことを没入型の3Dメディアだと思っている。五感におさまらない感覚まで再現できる、なんなら唯一の媒体だとも思う。いや、唯一はちょっと言い過ぎかもしれないけど。

たとえばの話、そう、自分の部屋のクローゼットの中に、何かがいるような気がする。音がするわけでもないのに、なんとなく、そのあたりに気配というか、生き物の息のしめった感じとか、なまあたたかさみたいなものがうずくまっている。それどころか、たまにこちらを見てさえいる。敵意とまではいかない、かといって好意的とも言い難い、じっとりした視線が背後からまとわりついて離れない。でもその感覚はもうずっと長いことあって、今となってはどこか馴染んでしまっている自分もいる。こんな感覚を文字以外で表現するのは、不可能だとまでは言わないけれど、かなり難しいことだと思う。

嫌な例を出したけど、やはりその場の感じを生々しく伝えるために、視覚情報と聴覚情報以外の情報をなるべく入れたい気持ちがある。においとか、空気のつめたさとか、湿気とか、さっきみたいに、なんとなく嫌な感じがするとか。淡々とでもそれを書き連ねていくと、その場に居合わせた感じになってくる気がする。

7月の深夜2時、ぬるま湯の中みたいな空気。ぬるくてべとついて緊張感のかけらもなくて、夜なのに拒まれている感じがない。てきとうな部屋着のまま、サンダルひとつで出られてしまう。外と中の境があんまりない。飲みものを買いに近くのコンビニへと歩くとき、若干だけ泳いでいる感じがする。いくら走ろうとしてもまるで進まない夢の中に似てる。
今これを書いてて、ああ、はやく冬終わらないかなあと思った。冬が終わっても、ゆううつな春がやって来るだけなんだけれども。


自分自身の実感として、はっきりした感情そのものが感情としていきなり明確に発露することはまずないし、完全にひとつの感情だけに振り切れていることもそんなにない。それよりもむしろ、体が重たいとか、普段なら気にもとめない些細なことがやたらと引っかかるとか、食べたいものをなにも思いつかないとか、気持ちがどうにも浮き立たないとか、そういう感覚の集合からそのときの感情が結論づけられるというほうが実態には近い気がしている。
感覚を丁寧に書く必要があると思うのは、それが理由でもある。

人間の抱く感情のパターンなんてそんなに多くはないんだと思う。だからメジャーどころの感情については、それを表す単語がすでに作られている。喜怒哀楽、羨望、やっかみ、あこがれ、焦り、無力感、云々。
でも、複数の感情がごちゃまぜになって、その中のとある感情がやや強めに出る時があったり、相反する2種類の感情がなぜか自分の中では矛盾なく存在していたりということは、ある。これを誰かに伝えようとするなら結局は自分の中で起きている感覚を書き連ねるしかない。
冒頭に書いたクローゼットの中にいるようないないような何か。不気味さと安心感はたまに両立することがあるのだ。


これを書いている現在、まるで文章が頭の中でまとまらなくて、書きたいと思うようなことも何も思いつかないし、そんなことよりも寝ていたい。いや本当は寝ている場合ですらない。まるで手がついていない家のことや事務的な手続き、そういうものがもう笑えないくらい山積みになっているのだ。それを前にしても体の重たさには勝てない。なんでこのわたしがそんなことしなきゃならないんだ、という思いも実はある。無為に時間が経過する。せめてと何か書こうとしてもさっきからまるでまとまらない。窓から見える空がやたらと青い。一度も外に出ていないのに。

端的に言ってしまえばそれは「疲れている」ということなんだろう。
だが、わたしの今の状態を自分からそんな一言にしてしまうことで、わたしの中でいまいち処理できていない感覚がたくさん取りこぼされていく気がするのだ。自分自身が取りこぼしてしまったら、もうほかの誰にも見つけてもらえる可能性はなくなってしまうのに。

だから文章にするとき、わたしは自分から感情に名前をつけることをなるべくなら回避したい。悲しかった、とか、嬉しかった、とか、直接書かずに済ませられるならすべてそうしたい。

わたし自身の感情を他人から勝手に解釈されるのは勘弁願いたいけれど、文章は別だ。
文章にした時点で、わたしの感情はわたしだけのものではなくなる。わたしの本当の感情とは切り離されたものになる。文章には理論上、必ず読み手がいるからだ。わたしから切り離されたその文章の中にふくまれる感情は、読み手側の出した一つの答えとして存在してほしい。わたしは読んでくれた人に思ってほしいのだ。「あなた疲れてるのよ」って。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?