泣けない

昨日の夜、泣こうと膝を抱えたっきり、今に至るまですっかり寝てしまっていた。カーテンは閉まっている。家に人が起きている気配はなく、個人的なnoteを書くのに適切な時機だった。

私は泣かない。泣けないといったほうが正しいのだろうか、どんなに辛くって一人で膝を抱える羽目になっても、どうしても泣けないのだ。「どんなに辛くって」だってまだ浅いと知ってるからだろうか、かつての私は毎晩自死してしまおうと決意を新たにするような人だったから。結局その時期を生き延びてしまったせいで、今もこうして悲喜交交な生活を讃美したりしなかったりすることによって私を徹底的に慰め生かすという日々を送っているのだけど。
「自発的に泣く」という行為の分解をする。或る人はまず悲しい感情を抱いて、ひとりで蹲ったりなんだりして、そして泣く。涙が落ちる前にだってストーリーはあるわけで、まずかあっと目が焼けるような熱さがあってそれがやや落ち着いた段階で、目の前がゆらゆらと曖昧に動いているのが感ぜられよう。それが落ち着くのを待たずして、下睫毛に溜めきれなかった涙たちがさあさあと頬を流れていく。そうしてしまったらもうどうしようもなくって、ただ時が過ぎ去るのを待つ。そういうイメージだ。
私は目の前がゆらゆらと揺れてしまったら、それでもうおしまい、そういう人である。もちろんその時に涙が見せる視界は妙に温かくって、これはこれで、一種の慰めかもしれない。でもこの感覚、夏秋によく味わうことができる。湿度が高い日に、ふらふらと夜外に出てみる、遠くの赤信号はやたらと主張激しく湿った空中に光を響かせ、おなじように湿った私の皮膚まで残酷にも赤を混ぜてきそうな勢いである。あの昼間はうざったくて仕様が無い湿気の一粒一粒が、夜間には私に心を許してくれていると感じる。それなのに、涙といったら目や頭だけがやたらに熱いだけで、身体はへんに冷えていく一方だし空気だってこんな私に距離をとって慰めてくれない。あんまりだ。そもそも完全に泣けたとしても、そんなに利点はあったか?時間に追われる現代人、全てが終わったら寒がる身体とがんがんする頭を抱えたままに「いつも通り」をこなさなければならない。
やはり結局のところ、涙に心を許せていないのが全ての問題だと思われる。そう、許せていないのだ。泣けなくたって別に、という思いが、一連の義務を果たさんとする涙の妨げになっている。ただ本当に、泣けないとは困りものだなとつくづく思う。つい先日も、本当に辛いのだと泣き崩れる友人の肩を撫でながら、心はどうしてそんなに泣けるのだろうという思いで満ちていた。もっと真剣になぐさめてやれという小言は無用である。彼女は私に一切の精神的やり取りを期待していないのは、友人間でよく知られる事実だ。(なのにどうして私に、という疑問はあるが)生憎、ひとの悲しみを見下したい人ではないのだ。人を泣けなくさせる天使か妖精は、頼むからもっと残酷な人間について欲しかった(この文書を書きながら、残酷な人間にも涙が慰めとなる日があるかも知れないなと思った。じゃあ私が全て引き受けましょうね、その天使たち)。
そういえば一方で、泣けなくてよかった点もある。友人たちの評価だ。殆どの友人に、一定して変わらなくて良い、という評価を受けている。どんなに危機的状況に陥っても身体的反応として泣くという行為がないのは、割と本当に、思考の冷静さを招くと考えている。

家族が帰ってきたから、こんな話は終りにしてしまおう。
いつか、私にも泣ける夜がありますように。