見出し画像

開かずの扉(2)

震災から1ヶ月余りの東北地方は、春とはいえ夜は底冷えのする寒さで、日によっては雪さえちらつき、明け方はテントの中にいても吐く息が白くなるほどだった。
そのときどんなに寒かったか、11年以上経ったいまでも、思い出すことができる。日々の活動で疲労困憊しているのに、寒くてろくに眠れなかったからだ。

ボランティアが滞在できる宿泊施設などどこにもなく、私たちは屋外に各々テントを張って寝起きした。水道もガスも電気もなかった。半径30km圏内には、コンビニもスーパーも電気屋も八百屋も肉屋も魚屋も酒屋もたばこ屋も花屋もファミレスもファストフード店もカフェも美容院もコインランドリーもガソリンスタンドも郵便局も銀行も病院もパチンコ店もラブホもなかった。公共交通機関はすべて運休していた。信号は全部壊れて消えていた。お金があってもなくても、クレジットカードを持っていても、何の役にも立たなかった。

「この世に『あって当たり前のもの』など何もない」という自明の真理を、誰もが再認識せざるを得なかった。

水は県外から貸し出されていた給水車で、毎朝山の上の浄水場で汲んできて使った。
ガスは支援物資としてやはり県外から贈られたボンベを使った。
トイレもトイレットペーパーも支援物資だった。
とはいえ、その他の食料品や生活用品は被災者のために贈られたものだから、ボランティアが手にすることはできなかった。自衛隊の入浴支援もあくまで被災者向けだから、風呂にも入れない。どんなに汚れても洗濯すらできない。
それぞれ必要なものはほぼすべて、自分でもってきたもので賄っていた。
足りなくなったら我慢するしかない。

それでも、誰ひとり不平不満を口にする人はいなかった。
なぜなら当時、40万人もの罪もない人々が住む場所を奪われ、不自由な避難生活を強いられていたからだ。

そこにボランティアとしてやってきた人の多くが、現場に立って、そこにいる人々に出会って、己がいかに無知で傲慢かを思い知らされた。

常人の想像力を遥かに超える惨事に見舞われながらも、明るく微笑んで「遠くから来てくれてありがとう」と頭を下げてくれる人。家も家族も失いながら、消防団員として捜索活動にあたっている人、学校職員として避難所運営に駆けずりまわっている人。「自分はいけないから、ボランティアのみんなで使って」と自動車や自転車を贈ってくれる人。目が不自由だからと、朝から晩まで各避難所をまわって無料で被災者の皆さんをマッサージしている人。どうしても何かの役に立ちたいと、仕事も家も何もかも擲って海外から駆けつけた人。

いろいろな人がいた。
そこで思い知る。
「『行きたい』と思って実際にボランティアとしてここに立っていること、それそのものが僥倖なのだ」と。

私が現場に立って最初に思い至ったのは、「これはちょっとやそっとの支援活動では納得がいかない」ということだった。

見渡す限りあらゆるものが木っ端微塵に破壊され尽くし、何もかもが泥にまみれ、動くものは何ひとつない風景が、クルマの窓の外を延々と流れていく。
目に焼きつくその光景に、災害緊急援助など初めての素人にも、「復興」の道程がいかに険しく遠いものかを思い知らされた。
それはほとんどファンタジーのようにさえ思えた。

現場で活動を始めて2日目には、「腰を落ち着けて支援活動を続けたい」という気持ちがかたまっていた。


(続く)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?