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メンタリストDaiGoさんは悪くない

メンタリストDaiGoさんが炎上しているらしい。私はこれまで一度もDaiGoさんの動画をみたことがないが、炎上に至るまでの一連の流れについてを複数の記事で知った。個人的な感想としては、叩かれすぎているという印象を受けた。

事の顛末については各新聞記事を読んでいただくとして、なぜ叩かれすぎていると感じたかについて述べようと思う。

まず、メンタリストDaiGoさんは学者でもなければ政治家でもない。つまり、一個人なのである。一個人が何かを考えて、発言することは憲法上の権利であり、何人もこれを侵害することはできない。たとえば政治家であれば、何かしらの公約を抱えていることから、それと矛盾するような発言をすることは国民を代表する公人としておかしいだろう。学者も然り、ロジックに基づかない曖昧な発言は、学者が研究しているテーマに対して誤解を与えることもあるかもしれない。対してDaiGoさんはエンターテイナーであって、それを視聴する人は、ある程度の発言の良し悪しについてはもともと考慮していなくてはならないはずだ。それにも関わらず、発言内容が犯罪行為であるわけでもないのに炎上し、本人が謝罪する事態に陥っている。これは少し異常なのではないかと思う。

また、発言内容についてはどうか。「ホームレスの命はどうでもいい」とか「臭いし」などといった発言は人としてのモラルに反していると思う。また、「猫よりもホームレスの命は軽い」といった思想についても非常に極端であると感じる。ただ、これが「優生思想につながる」とか、「影響力が大きい人がこんな発言をして良いのか」という反論については疑問点が残る。なぜなら、インターネット上のコンテンツに関しては「嫌なら見るな」の理論が成り立つからである。そもそもDaiGoさんを見なければ、優生思想にもつながらないし子どもたちへの悪影響もないわけである。最近はこうした根拠の乏しいインターネットのコンテンツをありがたがり、あたかも教材のように利用する人がいる。事実は小説よりも奇なり、ということで小説の方により大きな価値を見出す人が増えたのかもしれない。だから、メンタリストDaiGoさんは謝る必要がなかったし、弟くんもわざわざ遠回しに「謝った風」を演じる必要がなかった。本当に謝っていたら、「論破するまで怒る」といったチープな表現をしないはずである。

命の軽重については、あるはずがない。ホームレスの命もメンタリストDaiGoさんの命も等しく大切である。ただし、これはあくまで人間的な発想であることをみなさんは忘れていないだろうか。たとえば、現行法によれば、ホームレスの命とメンタリストDaiGoさんの命が等しく重要であれば(基本的人権)、猫の命は人よりも重要ではないことになる。なぜなら、猫を殺したとしても器物破損罪にしかならず、人を殺した時と同じ刑事責任を問われないからだ。だから、メンタリストDaiGoさんが考える命の価値は、非常に個人的で利己的である。しかし、それを頭の中で考えて、発言することは違法行為ではない。その思想に共感を持つ人は良いと考えるし、その逆もまた然りである。私はメンタリストDaiGoさんの発言に肩をもつつもりはない。しかし、私は生物内における命の軽重は少なからず存在していると考える。例えば、人間が生きていくために家畜を育てることや森林伐採等、他の生物を殺して活用しなくては人類が生活できないこともまた事実であるからだ。最近では、フランスで2022年から雄ひよこの粉砕処分が禁止となることが決まった。卵を生まない雄のひよこの命は軽いとみなされていたわけだ。以上のフランスのように、「最近の潮流は変わりつつある」という反論もあるだろう。しかし、ひよこについてはいいとしても、医療の発展のためにマウスで実験するのはどうなのか、とか、大腸菌のDNAをいじるのはどうなのか、など生物全体でみれば命の軽重は確かに存在しているのだ。しかし、このロジックでいってもメンタリストDaiGoさんの発言はおかしいことになる。猫の命が一部の人命よりも上等であるといっているわけだから。しかしこれも個人の自由な意見である。否定も肯定もせずに見なければ良いのだ。

だから、この発言に対しての正しい反応としては、「メンタリストDaiGoさんの発言はあまり論理的ではない」ということになるだろう。

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