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episode8. 被害届の提出とその頃の生活

(※ 学校名称や人物は仮名で、役職は当時のものです。)


宮崎県教育委員会、延岡市教育委員会の回答を受け、次はどんな行動を起こそうかなど考える気力すらも失ってしまった。被害を申告してからずっと正しい判断を信じ、教育委員会が下した判断が正されるはずだと信じてきたのに、正すどころか、これ以上私を相手にしないということを突き付けられたのだ。

以前、両親に裁判を起こすかもしれないと話した時「止めておきなさい。相手は行政で、お前が裁判を起こしても痛くも痒くもない。きっと何も変わらない。社会には不条理なことが今までもこれからもたくさんある。親としてこれ以上傷つくのを見たくないし、無駄に時間を過ごさせたくない。」と父が言った。もう止めた方がいいのかなと思ったり、絶対にあきらめるもんかと思ったりして、自分でもどうしたらいいのか分からなかった。

教育委員会への質問を送るのと同時に、松永弁護士を通じてA教頭の代理人へと文書を送っていたが、A教頭の主張は私の認識している事実とはあまりにもかけ離れ過ぎていて、平行線を辿るやり取りをこれ以上続けることは無意味だと感じ始めていた。

9月が始まったばかりのある日、お世話になった先生から「講師を探しているんだけど、今、何をしてるの?」と連絡が入った。それまでにも何度か講師探しの連絡を受け、その度に学校生活を思い出していた。子どもたちに正面から向き合い、熱心に教育に取り組む先生たちとの日々。その時、ふと、「このまま性被害について闘うことを諦めたら、誠心誠意学校で働いてきた時間が消えてなくなってしまうかもしれない。文書訓告という判断や不適切な対応に対して闘うことを諦めたら、今まで出会った先生たちの直向きな教育への思いや子どもたちの学校生活までをも曇らせてしまうかもしれない」と思った。

元非常勤講師で、単身で、女性で、社会的地位はもちろん何の後ろ盾もない私でも、8年間という短い時間ながらも子どもたちの成長に関わったという思いと、教育に携わった者として自分を信じる気持ちがあった。

私の大切な人たちが子育てをする宮崎県で、教育委員会に今のままでいてもらいたくない。教育委員会の問題を「なかったこと」にする体質を見過ごしたくないし、教育者として資質のない、性暴力を行う管理職のいる学校に子どもたちを通わせるなんて絶対に嫌だ。    

A教頭も教育委員会も私の投げかけをかわし続けるのなら、被害届を出して警察の力を借りるしかない。私はただ、誤った判断を認め、謝罪し、繰り返さないと約束してほしかった。

2017年9月22日
松永弁護士と被害届を出すことを決め、一人で警察署へ向かった。

半年前に相談に来ていたこともあり、比較的スムーズに被害届提出の手続きを進めてもらえたが、被害から1年半以上経過しているため、物的証拠を得られる可能性も少なく、状況としても厳しくなると分かっていた。それでも私が被害の事実をきちんと届け出て、警察に捜査をしてもらい、どれほどのことを起こしたのかA教頭や教育委員会に認識してほしかった。そして、然るべき対処をしてほしかった。

話したくない被害の詳細をまた一から説明することはとても辛く、苦しかったけれど、どんな思いをしてでも成し遂げなければいけないと覚悟していた。同じ頃、精神状態が不安定な自覚と家族の勧めにより、心療内科を受診した。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。

事情聴取、被害の再現、被害現場付近検証などでは、フラッシュバックによる追体験から、過呼吸や、涙が止まらず声が出なくなることがあった。本当に苦しくて、惨めで、逃げ出したくなる気持ちにもなったが、その時は、苦しさ以上の悔しさや悲しみ、A教頭と教育委員会に対する怒りが私を突き動かしていた。辛くても一つ一つこなすことができたのは、事件の捜査に関わった警察署職員たちが様子を見ながら「大丈夫ですか。少し休憩をはさみましょうか。」と声をかけてくれ、無理をし過ぎないための配慮をしてくれたからだ。警察署での聴取により、私も記憶から抜け落ちていた部分を思い出し、同時にA教頭への事情聴取も行われたことから、事件の全容に最も近いところまで明らかになった。

本当に辛い過程ではあったが、それを乗り切れたのは警察署での配慮、ハルや木谷さんが「きつかったらいつでも止めてもいい」という選択肢を提示し続けてくれていたこと、労働時間を調整してくれた会社、何より、家族がそばで見守り、支え続けてくれたおかげだった。

特に両親には、これ以上心配や不安を与えたくない気持ちから被害の詳細をずっと打ち明けられずにいた。ここでも心に重くのしかかっていたのは「私がついて行った」ということだった。被害届を提出した後に地元新聞記者の取材を受けた時、一番に頭に浮かんだのは両親のことだった。被害を打ち明けてからずっと何も言わずにそばにいてくれたのに、被害の詳細を新聞で知らせたくなかった。掲載日が迫り、これ以上黙ったままでいられなくなった12月の夜、やっとの思いで被害の詳細を打ち明けた。話しながらも、どうしてついて行ったの?と責められるかもしれないことがとても怖かった。「私がずっと後悔していることなんだけど…、疑うことなくついて行ってしまって…」と話す私の声が震える。

すると、母は「あすかは悪くない。あすかは全然悪くない。」と泣きながら優しく私の背中をさすり、私の頬を伝う涙を手で拭うと「生きていてくれてありがとう。」と抱きしめてくれた。後から聞いたのは、私が被害を打ち明けた日から詳細を話すまでの半年以上、母は戸惑いながらも性暴力の被害について、特に性被害に遭った人への言葉かけや家族としてのサポートについて学び始めてくれていたのだ。被害の詳細について私から話す時が来るのをずっと待ち続け、打ち明けられる心の準備をしていたという母。お母さん、たくさん心配かけて、たくさん泣かせてごめんね。そんな思いで胸がいっぱいになった。

捜査が進むにつれて、A教頭の代理人弁護士からの連絡や警察署からの連絡も増え、精神的に不安定さを増していった。仕事も思ったようにきちんとこなせず、だんだんと心のバランスが崩れていく。仕事中に涙が止まらなくなったり、ケガをして通院したりと、生活が回らなくなり始めた私に、会社も期限を決めずに休めるよう取り計らってくれた。2017年の年末は、記憶が途切れ途切れになっていて、毎日をどう過ごしていたのかが思い出せない。覚えているのは、ハルが送ってくれた新年のメッセージと写真で、そこは、私も何度か訪れたことのあるお気に入りの場所だった。雄大な自然の景色が美しく、ハルの言葉が温かかった。

点けていたテレビから聞こえる、新年を祝うCMの「明けましておめでとうございます!」という元気の良い明るい声とは対照的に、私はこれからどんな困難が待ち受ける1年を過ごすのかと思うと、抱えきれないほどの不安が膨れ上がっていった。

その後、一か月間休職したものの精神的不調は回復せず、階段を踏み外して落っこちたり、常に指先等をケガしたりしていた。このまま復帰しても迷惑がかかるし、休んでいても迷惑がかかる。これ以上、会社に迷惑をかけ続けられないと思い退職した。

抑うつや思考運動障害、意欲低下のため、再就職しようにも心と体がついていかず、仕事ができない時期が一年ほど続いた。そんな中、周囲のサポートもあり、知り合いの飲食店の厨房で週に2~3日程度、数時間の皿洗いをさせてもらったり、会社で簡単な事務手伝いをさせてもらったりと少しずつ働き始めることができる時期もあった。月に3万円程度の収入だったが、自分の身を案じることなく働かせてもらえる場所があることがとてもありがたかった。心の状態も良くなったり悪くなったりを繰り返していたので、単発や期限付きのアルバイトをして過ごしていた。短期のバイトに慣れてきて長期でできそうだと思っても、精神的なバランスを崩し、急遽辞めざるを得ないこともあった。

どうして私は当たり前に仕事をして、当たり前に収入を得ることができなくなってしまったんだろうと、仕事を失う度に落ち込んだ。

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