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理想の最期とは?

80歳以上の老人が1000万人におよぶとニュースで報道されていた。

年老いた親をどう看取るか?

一組の親子の終末期に密着取材した内容のものだった。観るのが怖いような気もしたが、目を逸らせる問題ではないのだなと思いなおし、しっかり観ることにしたのである。

年老いた母親は95歳である。子どもである兄妹もすでに60代から70代くらいになっている。

胃にチューブを入れて栄養を摂る胃ろうをしつつ、命を繋いでいる母親を見るのが可哀想だ、胃ろうを止めて自然に逝かせてあげたいという気待ちの妹に対し、兄は反対するのである。

『自分の親の命を自分が終わらせるなんてこと、できませんよ!』

こういう兄に妹が言ったのだ。

『お母さんはね、食べることが大好きだったのよ。胃から栄養を与えてもらうだけで一日中天井を見てるだけなのよ。'そんなの止めて、胃ろうなんて嫌よ’って今のお母さんは言うこともできない。だから代わりに私たちが言ってあげなきゃ。』

母親は認知症の症状も出ていて、延命治療を必要としないのか?という質問に対しての意思表示すら出来なくなってしまっていたのである。

ああ。こういう場合本当に見ている身内はたまらない気持ちだろうなと胸が痛んだ。

兄妹間で母親の命について、延命か、延命を中止するかで意見が分かれていては、気持ちが休まることがない。

血の繋がりのある者同士が、こういう感情論で対立してしまうと地獄であろう。

妹は、胃ろうを外して自然な最期を迎えさせてあげたいことを医師に訴えた。

病院の医師、看護師、薬剤師などスタッフ全員が集まり、この患者さんの状況を検討する会議が家族同席のもとで行われた。

胃ろうを中止するのは危険だと主張するスタッフもいたが、一人の歯科医が言ったのだ。

『少量ではあるが、口から物を食べることは可能です。』

たとえ僅かでも口から物を食べることが出来ると医師が判断すれば、胃ろうは外すことができるのである。

ただし、命を維持する量の食事は摂ることができない。よって、いずれかは命の火は消えてしまうことも宣告されるのである。

しかし、食べることが好きだった母親に僅かながらでも食べ物を口から与えてあげられるならと、反対していた兄も妹と医師の意見を受け入れた。

大好きだったアイスクリームをスプーンで食べさせてもらった母親は、何度も手を上げて、'ありがとう’という仕草をしていた。

やはり嬉しかったのだろうと思う。

『食べることが好きなお母さんに口から物を食べさせてあげたい。』という娘さんの願いは叶えられたし、お母さんだって認知症が進んでいたとしても、この瞬間はしっかりした意識で娘さんに『ありがとう』と感謝していたにちがいないと思った。

宣告されたとおり母親の体重はどんどん減っていき、緩やかに衰弱していった。

しかし最後まで口から食べ物を摂ることができ、静かな最期を迎えた。

眠るように亡くなった母親の顔に頬を当て、優しく頭を撫でながら、
『お母さん、よく頑張ったね〜』と涙を流す娘さんの姿が目に焼きついた。

涙が止まらなかった。
ものすごく考えさせられた番組であった。

家族に病人が出るだけで身内の者は平常心を保つことが難しくなるし、心労からのストレスも溜まるものだということは父が手術や入院をした時に経験した。

私も母や妹と意見が食い違ったりしてストレスが溜まり、それに加えて長女の高校受験を3ヶ月後に控えているという事情もあったので本当にクタクタであった。

そんな煮詰まったときに患者だけでなく、家族の心を癒し、最善の道を進言してくれ、労ってくれるのは他人でありプロである医師や看護師さんたちである。

患者も家族にはワガママを言うが、看護師さんの言うことには素直になったりする。

『こんなん食べられへん!』

味付けの薄い病院食を食べようとしない父に看護師さんが魔法の言葉をかけてくださるのだ。

『コレね〜美味しくないよね〜。あとちょっと我慢して先生の許可が出て退院したら美味しいご飯をお母さんに作ってもらおうね、お父さん!』

私たち娘が同じことを言っても聞かないが、看護師さんに言われるとニコニコ頷いて食べはじめるのである。

それは患者の家族も同じで、身内同士だと意見の押し付け合いをしてしまいがちになるが、医師や看護師さんが打開策を提案してくださると、皆が冷静になれることも多い。

身内ではなく他人に救われることの意味を感じるのは、やはり人の生命に向き合う時のように思う。

いずれはくる、避けられない人の最期をどのように看取るか?または看取られるならどうしておきたいか?

向き合わなければならないのは私たち生きている者の責任なのだろうか?

生まれ来る時も一人。
去る時もまた一人である。

理想の最期とはどういうことを言うのだろう。

『ピンころりで死ねたらいい。』などと冗談で言っている我が両親とて体調がすぐれないと、やれ病院だ、やれ検査だと不安がってジタバタするのである。

『ある程度の年齢になったら元気なうちにコロッと死にたい。』

そんなことをご年輩の方々は口にしたりするが、どこまでが本心なのか。
それは本人にしかわからないことだし、生きることへの執着は、人間ならば本能として持っているのではないだろうか?

人は産まれてくるときには本人の意志を確認されたりしない。
母のお腹で守られ、刻がくれば自らの力でこの世に出てくることができる。

しかし死を迎える頃になると、残していく者たちへの愛情や想い出という記憶の宝物を一人一人が『生きた証』として胸に抱えているわけである。

『そろそろラクになる?』
『まだ生きていたい?』
そんな確認をしたりされたりしなければならない場合もあることを考えると切ない。

『理想の最期』とは?

難しいテーマであるが、自分の人生を終える日が訪れたとき、後悔がなるべく少ない人生でありたいと願う。

『あんたよく頑張ったね〜。』

最期はそんなふうに愛する人たちに見送ってもらえる生き方をしていきたいなどと欲張る私は、かわいい婆さんになれているのか心配である。

『フフフ…』

爺さんになったスナフキンに苦笑いされていることのないようにしたいものである。

#cakesコンテスト

#エッセイ



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