見出し画像

おもいでぽろぽろ⑤1年の端っこに[母が認知症になりました。]

現段階ではまだ母に忘れられていなかった弟と私。
でも、時間の問題のような気がする。

母は紙おむつはしているがしょっちゅうトイレに向かう。
自分でトイレに行ける・トイレができるのはいいことだが、こぼしてしまうので部屋中に新聞紙が敷かれている。
ちなみに家でこのトイレを使うのは、母と私だけだ。弟一家のトイレは別にある。

トイレに入ったらトイレットペーパーがあとわずかになっていた。
これはいかんと、弟にLINEで「トイレットペーパーってどこ?」と聞く。

するとストロークが長い家の廊下を、亡くなったジャイアンのような父と同じ歩き方の足音が聞こえてきた。彼は母が寝ている部屋の押し入れからトイレットペーパーを出して「ほれ」と渡してくれる。

トイレットペーパー・ホルダーの横に替えを置いておいたが、これが大失敗であった。
次に、母の後にトイレに入った時、トイレットペーパーがない。替えも見当たらない。
「ここに置いたのに……」
しょうがないからまた新たなトイレットペーパーを付け替えて、事なきを得る。

トイレを出た後に、「なぜ、こんな所に?」という棚の上に半分ぐらい使用したトイレットペーパーがゴロンと放置されていた。

あ……そうか!
母はトイレットペーパーを替えることがもうできなくなっているのだ。

一人でトイレができるからといって、トイレ関連の動作が全部できるかと思ったら大間違いだった。
ペーパーをホルダーに押しつける形の簡単なトイレットペーパー交換ももうわからないのだ。
補充用のトイレットペーパーがあるとそのまま紙をちぎって使い、トイレからそのまま持って出て、忘れていろんな所に放置する。

弟に「母さん、もうトイレットペーパー替えられないみたい」と報告すると、弟は「そうか。1回のトイレでトイレットペーパー半分ぐらい使うのはわかってたが」と笑う。
「そうそう。すごい勢いで消費するよね。大丈夫?」
「ああ、それぐらいで済むんだったらトイレットペーパーぐらい、いくらでも買っておく」

頼もしいおっさんだ。

母のできないことがまた一つわかった姉と弟。

母はというと、トイレから戻るとまた「おや、あんた、いつ来たの?」と繰り返す。10回目を超えた時点でもう数えるのはやめた。

リビングで話をしていると「もう寝よう」と誘ってくる。まだ昼間だ。
「お母さん、眠いんだったら寝ていいよ」というと「一緒に寝よう」と誘う。
「一人で寝なよ。私は眠くない」と言っても、すぐに忘れてまた誘ってくる。
そのたびに「お昼寝すると、夜に眠れなくなっちゃうよ〜」と返す。
母はニコニコと笑っている。

一見、平和な大晦日の出来事。
でも、悲しさが降り積もってくる。

母の手足の爪を切る。

認知症の症状が出る前から母は目が見えづらくなっていたので、1年前にも爪を切ってあげていた。今回は1年ぶりだが、その間に弟の嫁が切ってくれていたのだろう。見るとやはり爪が伸びていたので持参した爪切りを取り出す。手と足の爪を丁寧に切る。厚みのある爪、巻き爪になっている爪もキレイに切る。ゆっくりゆっくり愛でるように切る。

あと何回、爪を切ってあげられるだろう。

また1センチほど、悲しみが降り積もる。

もう母は台所を使えない。
大型冷蔵庫は空っぽに片付けられていて、電源も入っていないただの箱になっていた。
包丁は危険だから隠されていたし、火の元は厳重。

台所に居る母の姿はやはり一番の思い出だ。
学校から帰宅して、自分の部屋に居ると、夕方頃に母が私を呼ぶ声がする。
「何事か!」と驚いて階段を駆け下り、台所の母の元に。
「お母さん、どうしたの!」
「見て〜♪双子ちゃんだよ〜」
母の指さす先には、くっついた二つの卵黄。卵を割ったら双子だったという。こんなことで私を呼ぶ母はちょっとぶりっ子のようで可愛かった(でも時々、ひどく冷たいことを言う二重人格。昨日と今日で話が変わるし、全然よめない人だった。血液型はAB型)。

ある時、また台所に居る母が大声で私を呼ぶ。
慌てて、階段を駆け下りて、台所に行くと……
「はい、端っこ」
と言って、卵焼きを切って出る不格好な端っこを私の口にあーんと入れてくれる。

それは恒例で、卵焼きはハムだったり、かまぼこになったりする。
「端っこ、食べる?」

私は今でも「端っこ」が大好きだ。
真ん中よりもおいしい気がする。

2022年大晦日の台所で思い出して、どんどん悲しみが降り積もってきた。

弟の嫁が3日間分のお雑煮とお煮染めの鍋を用意してくれていた。
私は温めて、母と一緒に食べるだけだ。
自分の好きな物・食べたい物は自分で用意すべきだった。

一人暮らし歴40年。好きな時に好きな物を好きなだけ食べられる生活をしてきた私にとって、3日間用意された物だけを与えられる不自由さは監獄に等しかった。私の大好物は「自由」なのだ。

母と二人の時に、お土産に買ってきた北海道チーズケーキを出してみた。
ホールを8等分にして、母にはおやつとして少しずつあげようと思っていたが、驚くほどぺろりと平らげてしまった。

「③どこでもチーズケーキ」のくだりを読んでくれた人はわかると思うが、やはりココスで食べたバスク風チーズケーキのことなんかこれっぽっちも憶えていなかった(笑)。
ひと口食べて、立ち上がって、数歩歩いて、振り返って、もう忘れている。
「これ、何け?」
「お土産だよ。北海道チーズケーキ」
「北海道行ったんけ?」
「行ってないよ」
「ふーん」……パクッ
このくだりを4回繰り返した。

でも、おいしそうに食べてくれたからまぁいいか。

東京で調理して土産に持ってきたミートローフ(友人である料理研究家の吉田めぐみさんレシピ)も母は食べてくれた。
消化に良いだろうとミートローフにした。
大晦日の食卓に並べておいたら、母はまたおいしそうに食べてくれる。
でも、そこで気がついた。多分、母はよくわかってない(笑)。

弟も食べてくれたのが意外だったが嬉しかった。私の手料理を食べるのは初めてだが、味はどうだろう。
「今までの人生でミートローフというものを初めて食べた。基本的にどんな味なのか知らないからおいしいかどうかわからない」
わからんのかーい!
自分でも食べてみたが、いつもより塩味が足りない気がした。
失敗してんじゃん。おいしくないんじゃん。くっそー!
でも、弟が食べてくれたことが嬉しかったからまあいいや。

でも、弟の嫁と娘3人はミートローフに一切箸を付けてくれなかった。
まぁ、お年玉あげたことないから嫌われててもしょうがないか(笑)。
フリーランスは貧乏なのよ。カタカナ商売は華やかなイメージ持たれがちだ。わからないだろうな。

結局、一番うまかったのは漁師である弟が仕込んだ昆布締めのお刺身(白身)であった。あれはお店で出せるレベル。もっと食べたかった。

紅白歌合戦が始まる時間になると、母はもうベッドに入っていた。
いつも夜7時には寝てしまうらしい。
弟一家も自分たちのリビングでくつろいでいるので、私は一人で紅白歌合戦を見ていた。

夜9時過ぎだったろうか。
突然、廊下の先から不穏な音が聞こえてくる。

ガチャガチャガチャガチャ

ドアを開けようと激しくドアノブを回す音。
施錠してあるので開くはずないのドアを今度は拳で叩き始める。

ドンドンドンドン
「開けて!開けて!」

真っ暗闇の廊下の先で母が叫んでいた。

「お母さん、どうしたの?」
なるべく、何事もないような自然な感じで声をかける。

「開かない!開かない!」
「こんな遅くにどこに行くの?」
「帰る!うちに帰る!」
「おうちはココだよ〜。もう寝ようね」

母の徘徊が始まって、おまわりさんに保護され、連れ戻されてから、弟は出入り口を全て施錠できるようにしてしまった。鍵は母の手が届かないところにある。
この3日間、私も母と一緒に閉じ込められることにした。

さっきのやり取りを一晩のうちに何度も繰り返した。
真っ暗闇の廊下の先から悲しい音が鳴り響く。

ガチャガチャガチャガチャ
ドンドンドンドン
「開けて!開けて!」

かまぼこの端っこを私の口に入れて、笑っていた母はもう居ないのだ。

……もう居ないのだ。

母が認知症になりました。離れて暮らしているので、介護を任せている後ろめたさが常にあります。心配、驚き、寂しさ、悲しさ、後悔、後ろめたさ。決断と感謝と孤独。感情的にならずに淡々と書きますが、時々泣きます(笑)。一人暮らし還暦クリエイターによる☞脱力記録です。不定期で綴っていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?