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「夢」(元にした故事成語:『胡蝶の夢』)

 店主は掌に古びた本を持っていた。随分と日焼けしており、擦れて背文字は読めない。
「多分それじゃないかな。私が探している本は」
 懇意にしている店主はいつもなら快くその本を譲ってくれる筈だった。
「いえ。これは私のです」
「きっとそれだ。見せてくれ」
「これは私のです」
 伸ばした腕を蝿のように叩き落とされ、私は柄にもなく声を荒らげようとした。
「困りますなぁ」
 まるで映画の特殊効果のように店主の姿はグゥんと店の奥へ吸い込まれていく。
(待てッ)
 私の叫び声は喉の奥で消えた。
 
 ジーワ、ジーワ、ジーワ・・・
 私は蝉時雨から目覚めた。嫌な汗をかいている。ここ数年、私は探しているものが見つからなくて苛々していた。
 竹枕に触れると、今かいた自分の汗が既にヒンヤリと冷えている。
(はて)
 私は首を捻った。
(探しているものは何だったか・・・)
 畳の上に逃げ水が見える。
「バカな。部屋の中に何故」
 プカリと蛹が浮かんだ。私は見守った。今にも、パリパリと小気味良い音を立てて蛹が割れ、美しい蝶が産まれるのではないかと。
 蛹はバランスを崩して沈んでいった。
「ああ」
 手を伸ばして掬っておけばよかった。後の祭りだ。
 喧しい程風鈴が鳴った。
 
「もしもし、もし」
 肩を叩かれ、私は夢から覚めた。
 馴染みの店主が苦笑している。
「え?寝てましたか。こりゃどうも」
「いえいえ」
 店主は私が広げていた本をチラリと見てから去った。売り物に涎でも垂らされては堪らないと思ったのだろう。
 寝不足がたたって、古書店の片隅で居眠りをしたようだ。いいトシの会社員が恥ずかしいことだ。頭を下げて店を出ると日差しが眩しかった。
「あ・・・?」
 何かを探しに家を出た筈だ。
 思い出せない。
 
 家に帰ると実家から荷物が届いていた。
「珍しいな」
 段ボールを開けると蝶が舞い上がった。よくぞ生きていたものだ。
「『お前のものが押し入れから出て来たので送ります』、か」
 中身には新聞紙が被せてある。何気なしに捲ると
「ばあ」
と少年が顔を出した。
 
「これこれ、こんなとこで」
 ジーワ、ジーワ、ジーワ・・・
 少年がパチリと目を開ける。
 ばあちゃんが優しく覗き込む。
「縁側に顔出して、まぁ。顔だけ真っ黒になるがな」
「うわぁ」
 少年はむくりと起きて顔の汗を拭う。
「変な夢見ちゃったぁ」
「どうしたね」
 少年は昼食の素麺を啜りながらばあちゃんに話す。
「夢でね、僕オジサンになってんの。どっか都会に居た。そんで、本屋さんで何か探してた」
 ばあちゃんは機嫌良く笑った。孫の話は何でも楽しい。
「しょうちゃんは本が好きだからねぇ」
 孫は口を尖らせる。
「都会に住んでんのはいーんだけど、なんかフツーの会社員ぽかった。つまんない」
「何言ってんの、お仕事があって働いてるだけで偉いんだよ?」
「んー。ゴチソー様」
「これこれ、ちゃんと自分が食べたお皿は運びな」
「はーい」
 
 少年はめんつゆを飲み干して箸とそば猪口を台所へ運ぶと、ちゃぶ台に原稿用紙を広げた。
「夏休みの宿題かい?」
「うん」
「来たばっかりで偉いねぇ」
「作文は好きやもん」
「そうかい」
 ばあちゃんは原稿用紙が濡れぬようサッとちゃぶ台を拭いてやる。台所で食器を洗う音が響く。
 少年は原稿用紙に鉛筆を走らせる。

「しょ、う、らいの夢、と。僕の将来の夢は、小説家になることです・・」
 
 ひらり。 
 
 縁側に蝶が舞った。


(蝶の画像 写真AC hiro71さんの作品)

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