「殻」(元にした作品:伊藤整 詩集『雪明りの路』より『私は甲虫』)
(今更ふたりになったとてどうしたものか)
若い頃は並んで座るだけで嬉しかったものだが
そんな純情は枯れてしまった。
生活は必要事項の伝達で成り立つもので
私はお前の背中を労ったことがなかった
私たちはお互いの顔を、いつ向き合って見ただろう
若い頃は見つめ合うだけで幸せだった
お前の仮面は冷たくなっていった
人間は面の皮を厚くして
柔らかく弱い心を
大事に覆い隠して大人になっていくものだ
立派な鎧を着ている方が
立派な大人なんだと思っていた
私はそういう時代に育った。
「 」
「 」
「 」
単語を並べるだけで妻は言うことを聞いてくれて
そんな「部下」が家庭内に居る自分は立派な夫なのだと思っていた
お前が殻の奥深くに潜り込んでいくことに気付かなかった。
(私たちは、二匹の甲虫のように)
老いていくのだろうか
墓には二つの甲虫の抜け殻が
納骨されるのだろうか
「・・・・」
私は思い立ち、腰を上げて急須を手に取った。ポットからドボドボと湯を注いで茶を淹れると、妻は少し驚いた顔をした。
(あら、何故私に言いつけないのかしら)
そんな顔だ。
私は下手に淹れたおそらく美味くはない茶を、妻の前に置いて
黙って椅子に座った。
妻は、不思議なもののように湯呑みを見る。
私は黙って顔の前に新聞を広げた。妻に茶を淹れたのは初めてだった。
「・・・どうも、ありがとう」
新聞の向こうでコトリと音がして湯呑みが動いた。
私たちはふたりの甲虫だ
息子は遠方へ就職した。娘は嫁いで家を出た。
私たちは甲虫のまま老いていく
殻を被ったまま
互いを警戒しながら
そしてたまに そっと 殻の隙間から
相手に敵意が無いか様子を伺い
また殻の奥へと引き籠る
新聞の向こうで妻が動き
「食べます?」
隠しておいた饅頭を出した。
妻も、私も。
色の違う ただの甲虫。
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