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「殻」(元にした作品:伊藤整 詩集『雪明りの路』より『私は甲虫』)

   私は甲虫

お前を寂しい私の生活の花にさかせ
お前の菓子のやうな言葉を私のために使はせ
私の陰慘な思想を立て直し
そうして今のみじめな狀態から
新らしく 良い生活をはじめるのを
眞晝の雨降花のやうに
ぼんやりしたまつ白い夢として
幾たび胸のなかに ひそかに畫いてみたとても。
今日もまた 女よ
私の存在に無關心な内氣な顔よ。
私とお前の間には この冷たい空間があつて
私の心象を限つてしまふ外皮が私をおほひ
あゝ私を甲虫のやうにこはばらせてゐる。

詩集 雪明りの路 (椎の木社) 45頁


(今更ふたりになったとてどうしたものか)
 若い頃は並んで座るだけで嬉しかったものだが
 そんな純情は枯れてしまった。
 
 生活は必要事項の伝達で成り立つもので
 私はお前の背中を労ったことがなかった
 私たちはお互いの顔を、いつ向き合って見ただろう
 若い頃は見つめ合うだけで幸せだった
 お前の仮面は冷たくなっていった

 人間は面の皮を厚くして
 柔らかく弱い心を
 大事に覆い隠して大人になっていくものだ
 立派な鎧を着ている方が
 立派な大人なんだと思っていた
 私はそういう時代に育った。

「  」
「  」 
「  」
 単語を並べるだけで妻は言うことを聞いてくれて
 そんな「部下」が家庭内に居る自分は立派な夫なのだと思っていた
 お前が殻の奥深くに潜り込んでいくことに気付かなかった。
 
(私たちは、二匹の甲虫のように)
 老いていくのだろうか
 墓には二つの甲虫の抜け殻が
 納骨されるのだろうか
 
「・・・・」
 
 私は思い立ち、腰を上げて急須を手に取った。ポットからドボドボと湯を注いで茶を淹れると、妻は少し驚いた顔をした。
(あら、何故私に言いつけないのかしら)
 そんな顔だ。
 
 私は下手に淹れたおそらく美味くはない茶を、妻の前に置いて
 黙って椅子に座った。
 
 妻は、不思議なもののように湯呑みを見る。
 
 私は黙って顔の前に新聞を広げた。妻に茶を淹れたのは初めてだった。
「・・・どうも、ありがとう」
 新聞の向こうでコトリと音がして湯呑みが動いた。
 私たちはふたりの甲虫だ
 
 息子は遠方へ就職した。娘は嫁いで家を出た。
 
 私たちは甲虫のまま老いていく
 殻を被ったまま
 互いを警戒しながら
 そしてたまに そっと 殻の隙間から
 相手に敵意が無いか様子を伺い
 また殻の奥へと引き籠る
 
 新聞の向こうで妻が動き
「食べます?」
 隠しておいた饅頭を出した。
 
 妻も、私も。
 色の違う ただの甲虫。
 

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