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「山に咲く小さな花を見に」(元にした作品:伊藤整『雪明りの路』188頁 ひとりしづか A Reverie)

「一人ポツンとしている奴がさ、『私は繊細なの。人とは違うのよ』って顔をするのが生意気でならない」
 学生時代、そう言って私を揶揄う男子が居た。向こうは向こうで
(俺は他人が気づかない所も見てるんだぞ、へへん)
という顔に見えるのだけど、私は無駄な喧嘩は売らない。本を閉じて席を立つと向こうは勝者の顔で笑った。他のクラスメートは無関心だった。私にも、その男子にも。

 私は一人で居るのが好きで、幸いそれ以上揶揄われたり苛められたりすることなく学生時代を終えた。今時ボッチなんて死語だと思うのだが、群れることが出来る人間はそれはそれで才能なので尊重する。周囲に合わせられる協調性は社会には必要だと思っている。私が災難を避けられたのは平均的外見と、意外と周囲を観察していて本当にヤバそうな事態は避けてきたおかげだ。特に観察は生き抜く上で必要だと思うので、歩きスマホなど決してやらない。災難の方が自分を避けてくれるだなんて、傲慢ではないか。
 標準的スキルを備えた私は小さな会社へ就職し、そこでも似たような日常を続けている。会社というのは有難いものでやることが決まっていて、怠りなく勤めていれば居場所は確保出来る。私は表面張力でそっと周囲と距離を保ちながらアラサーを迎えた。
 
 アパートの一人暮らしを寂しいと思ったことはない。自分だけの生活空間は心地良い。見たくもないテレビを大音量でつける同居人も居なければ、食べたくもない食事を強いられることもない。私は自分がそうするのが好きだから、規則正しい生活を続けている。休日でも五時半に起きて六時には朝食をとる。そうしないと午前中の家事が綺麗に片付かないからだ。スタンプカードに毎日押されたハンコが綺麗に並んでいる。私の生活はそんな感じだ。
 
 趣味といえば読書と、読書のお供のコーヒーを開拓すること。ささやかな贅沢として、豆だけはちゃんと豆を買う。
「挽かずに豆のままで」
の一言には特別感がある。そんな折、会社の近くに豆屋が出来た。少し路地を入った所の小さな店だった。

「いらっしゃいませ」
 
 壁はコンクリの打ち出しで床は木材。カウンターには豆の見本が入った硝子瓶が並ぶ。趣味を押し付けずに余白を持たせた雰囲気がいい。店主はメガネ、顎髭、ニット帽という、豆を焙煎する人間にありがちな外見をしている。
 簡単に豆の説明を聞いた。店主は馴れ馴れしくも冷たくもなくフラットな口調で、この人は常連にも一見いちげんにも同じトーンで話してくれそうだと勝手に思った。私は深煎りの豆を買った。浅く乾いた豆より艶やかな深煎りが好きだ。
「うちは不定休なので、お手数ですがご来店の前に確認をお願いします」
 そう言ってQRコードの入ったショップカードを渡された。サイトには店主のプロフィールも載っていて、年齢は私より七つ上。趣味:登山とあり、幾つか山の画像も載せていた。自撮りではなく風景だけを切り取ってあった。
 
 それから私は豆屋のサイトを開くのが習慣になった。更新はマメではないようだ。
(豆屋なのに)
と一人で笑う。
 ある時サイトを開くと山野草の画像が掲載されていた。
(ヒトリシズカ)
 初めて見る花だった。
(なんて良い名前だろう)
 白くて小さい花。こんな名前をつけた人は天才に違いない。
 
 私は花の名を気に入った。
(願わくば、自分がこの名で呼ばれたい)
 そう思うほど。 
 次の週末、私は豆を買いに行った。
 
 週末だからと柄にもなく少しお洒落をして豆屋へ向かう。入り口のガラス越しに店内が見えた。カウンターに女性がもたれかかっていた。私は何故か足が止まった。
 女性は店主より少し年上に見えた。グラマラスで色気漂うボディライン。アップの髪型の後れ毛が白いうなじを際立たせている。親しげに店主に話しかけ、時折腕に触れたりもする。ドアの外で遠慮している私に店主が気づき会釈をした。振り向いた女性客と目が合った。彼女は店主と言葉を交わしてドアを開け、私と入れ違いに外へ出た。
「ごめんなさいねぇ、長居しちゃって。どうぞどうぞ」
 嫣然と微笑み私の為にドアを押さえてくれた。私はどうもと返す。ドアが閉まり閉じ込められた店内にほんの少し、気まずい雰囲気が漂ったと思うと
「タッちゃーん、そう言えば静子おばさんとこ、大学受かったんですって。何かお祝いしてあげて。お願いね」
 女性が勢いよくドアを開けて呼び掛け、風のように去って行った。
「うるさくてスミマセン」
 店主が謝る。
「叔母なんですよ」と。
 私は一瞬で悟った。女性客は私が自分と店主の仲を誤解しないように、わざと親戚の名を出して否定したのだ。私は彼女の配慮を恥ずかしく思った。
 
 私は気づかないふりをして、カウンターに飾られた花に目を留めた。
「ヒトリシズカですね」
「ご存じですか」
「いえ、こちらのサイトで知ったんです」
「いい花ですよね」
「山へ行かれたんですか」
「ええ。叔母もね、その話をしに来たんです。山はもう止めろって」
「・・・・」
「うちの親父、山で死んでるんですよ」
「そう、ですか・・・」
 店主は手短に話した。叔母は山で死んだ父親の、年の離れた妹だと。父親がそんな死に方をしたというのに山登りを止めない甥を気にかけている。
「所帯を持てってうるさくて。こっちは、家族を足枷に使うのは違うだろうと言い返すんですけどね。それに」
 店主は試飲用のコーヒーを淹れながら話を続ける。
「親父は山で一人で死にましたけど、本望だったんじゃないかって思うんです」
 苦い香りが漂う。
「捜索とか、人に迷惑は掛けましたけどね。好きな場所に抱かれて人生を終えた。まぁ、実際どんな最期だったかは本人にしか分かりませんが」
 店主はそこまで話して気が差したのか
「すみません。人が死んだ話なんて失礼でしたね」
と謝った。
「いえ・・・」
 私も話し始める。
「分かる気がします」
 
 私は、私の母が死んだ時の話をした。
「私の母は50代で亡くなったんです。孤独死でした。父とは昔離婚していて、家の近くに兄夫婦が住んでいたんですけど、見つかったのは死んで数日経ってからでした。急な心臓発作で。ほんとに、前触れもなく。でも・・・母は満足だっったと思うんですよね」
 店主も聞いてくれた。
「母は『シワクチャでヨレヨレになってまで生きたくはない』と言っていて。美容には気を遣ってましたね。大分若く見えました。あと『息子の嫁に介護なんてされたくない。オムツを替えられるなんて真っ平』とも。棺の中の顔は綺麗でした。綺麗なままで、兄や兄嫁に面倒も掛けずに死ねて良かったって、多分母は嬉しかったと思います。孤独死って悪い言葉に聞こえますけど。私は、そうでもないんじゃないかって。失礼ですけどそちらのお父さんも・・・仰るように、本望だったのでは」
 私は花を見た。
「今日はこの花を見に来ました。素敵な名前の小さな花を。一人を肯定してくれるような、いい名だと思って」
 店内に飾られた花が見たかった。あと、私は多分少し、店主が好きだから。
 その日豆を買った私に、店主はおまけだと言ってその花をくれた。
 
 私は表面張力の膜の中から時折手を伸ばし、彼と膜越しに寄り添い、会話と、時に体の触れ合いを、頻繁にならない程度に繰り返している。恋人とは言えない位の独り者同士。私も彼も多くを望まない。
 いつか私が、彼に会いに行くのが億劫になったら。目覚めた時も彼の顔を見たいと思うようになったら。私は彼と暮らすかも知れない。
 ただ
 それまでは私は
 今居る場所でひとりしずかに咲いていようと思う。

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