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“茶道と禅” #2 日本へ渡った喫茶

以前”茶道と禅” #1 「禅」とは、で日本へ伝わってきた禅宗と、その教えの基礎的な部分、また現代に伝わる禅、といった内容で記載しました。
♯2では、喫茶という文化、茶道と禅がなぜ関係があるのかについて個人的に勉強したことを記載してみたいと思います。

★茶は中国から日本へどのように入ってきたか
茶は、日本に臨済宗を伝え「喫茶養生記」の著者である栄西(ようさい)が茶の湯の歴史に関する第一人者であるとされてきましたが、最近の研究では歴史の授業でも出てきた遣唐使(平安時代初期8世紀頃)を通じて日本に伝えられたのではないかとされています。
日本天台宗の開祖である最澄(さいちょう)が、自身が茶を飲んでいることを記録した最初の例であると言えるようです。
最澄が日本に茶をもたらし、出身地の滋賀県大津市坂本には、最澄が植えたとする茶園の伝承もあります。最澄は、真言宗の開祖である空海(くうかい)とともに804年に唐へ渡り、2年ほどで帰国。
帰国後も自身で茶を飲んだり、要人へ茶を贈ったりしたことを両者とも記録に残しており、彼らが茶の実を持ち帰り、栽培を始めたのでは、と推測されています。
(それよりも以前の奈良時代から日本の茶の歴史は始まっていたのでは、という説も研究されています。)

★嵯峨天皇の琵琶湖遊覧
「日本後紀」には、30年以上も唐で仏教を学び、最澄空海らとともに帰国した住職の永忠(えいちゅう)から、嵯峨(さが)天皇が琵琶湖を訪れた際に、青磁や白磁の茶碗で、唐式の茶を振る舞われた、という記録が残っているそうです。
それから嵯峨天皇は、茶の木を関西各地へ植えさせ、献上品として納めるよう命じたそうで、関西を中心とした、国内のいたるところで仏教寺院に付随して茶園が開かれるようになります。
日本に持ち込まれた茶を飲む文化は、その後平安貴族の朝廷行事の中に取り込まれ、受け継がれるようになりました。

★栄西の功績
最新の研究が進むまでは、日本における茶は、中国が宋の時代に、臨済宗のの開祖である栄西(ようさい)が禅とともに、日本に持ち帰ったものであるとされてきました。しかし現在での栄西の実績は、「喫茶養生記」という茶の効用についてまとめられた本を、鎌倉幕府の三代将軍、源実朝へ献上したこと、とされています。
その中で、「茶は仙人のように長生きできる薬であり、心臓にもよい」と著しており、当時は漢方薬や医薬品のような位置づけにあったと考えられています。
また禅宗における座禅修行では、眠気を覚まし、栄養補給にもなるということで、禅宗寺院の生活ルールとして、茶礼が組み込まれるようになったのです。

そうして主に鎌倉時代から室町時代にかけて、平安貴族が嗜んできた茶の文化は禅宗とともに武家へと広がっていきました。
中国では、禅宗は明の時代に終焉へと向かっていったため、日本では禅宗の思想を受けた抹茶法が独自の発展をしていきます。
これが茶道と禅が切っても切れない関係であるあらましなのですね。

★鎌倉時代~室町時代の武家の茶
鎌倉時代の後半から室町時代にかけて、宋や元へ多くの貿易船が出されました。そして禅僧の書や青磁の香合、花入、茶入、茶碗といった、今の茶道具にあたる多くの美術品が輸入され、これらは一括して唐物と呼ばれました。
鎌倉では唐物を使った茶が大変流行している、という手紙が残っているそうです。
それから文化は成熟していき、茶の味や品質、産地を飲み比べる「闘茶」が流行し、それがどんどん発展していった先には豪華な景品を準備したり、ルールが複雑化していきました。
行き過ぎた賭け事に治安の乱れと危険性を感じた室町幕府は、闘茶、および茶寄合(ちゃよりあい、喫茶を目的とした会合のこと)を禁止しています。しかしそれでもおさまることはなく、100年以上もそういった茶の文化が続くとともに、将軍や大名たちも、会所と呼ばれる建物で、輸入した茶道具を飾り付け鑑賞しながら喫茶を楽しんだということです。

この続きは茶の湯の歴史とともに、「茶道と禅 #3」へ・・・
ボリュームがすごいです・・・!(;'∀')

※参考文献
●「茶の湯の歴史」 神津朝夫著
●「茶の湯がわかる本」 淡交社 今日庵茶道資料館監修