見出し画像

映画『犬王』レビュー

【もしもロックがリックでギブ・ユー・アップだったら】

 Rockで良かった。

 これがもしもRickだったら。犬王を舞台へと送り出す友有の奏でるサウンドがリック・アストリーの「Never Gonna Give You Up」だったら、京の街の橋上に集まった者たちの、北朝と南朝との争いで幾度となく焼けた京にあって荒み、燻っていた心は煽られて吹き上がることにはならなかっただろう。

 響くビートの中で鳴るリック・アストリーの低音ボイスに癒やされつつ、刻まれるビートに乗って腕を振り腰をくねらせるスタイリッシュなダンスに誘われて、共にその場で身を揺らし、腕を振り、ターンをしクラップをして心を夢心地の中へと浸らせただろう。権力に父親を奪われた友有の激情も、自分の衝動を爆発させた犬王の奔放もない。刹那の官能に流されていくだけの凡庸な、けれども心地よい時間しか生まれなかっただろう。

 Rockだったからこそ、湯浅政明監督によるアニメーション映画『犬王』で京の街の人々は、地の底から湧き上がるような友有の歌声によって誘われ、鬱屈を爆発させられたのだ。心臓の鼓動にも似た太鼓のリズムに同期させられた心情が、数奇な運命を辿り育って世に矛盾を説く異端の能楽師、犬王への関心となって高まったのだ。

 そして、能楽堂でも能舞台でもない河原で、寺社で、庭園で繰り広げられながらハードに、そしてパンクに、やがてグラムにと移ろっていく犬王の舞と謡に当てられて、熱狂の渦に翻弄させられたのだ。

 猿楽能を演じる比叡座の頭領を父に持ちながらも、ある事情から人間のような姿から遠く離れた異形で産み落とされた子供は、犬と駆け回り、残飯を喰らいながら父と兄たちの稽古を見て成長していく。触発されて踊る中、脚だけは人間と同じものになったが、相貌の異形は解けず、やたらと長い片腕も変わらずその姿で京の街を走っていた時に出会ったのが、遠く壇ノ浦で漁師の子として生まれながら、視力を失い琵琶法師の一座に誘われた友魚だった。

 滅びた平家とともに壇ノ浦に沈んだ三種の神器を探しに来た武士が、引き上げられた剣を不用意に鞘から引き抜いたことで目を切られた友魚は、命を奪われた父親の敵を探し求め、杖を頼りに歩いているうちに厳島へと法要に来た琵琶法師と出会い、連れられてそのまま京へと登った。この時の、目を切られてもうっすらと見える光の中の影として描かれる世界が、抽象と具象の間を行くような絵画にも似たタッチで描かれて、友魚の置かれている境遇を体感させる。巧い処理だ。

 自ら名を付け犬王と名乗るようになっていた異形と、友魚から琵琶法師の一座に入って名を変えた友一はすぐに意気投合し、父親や兄たちとは同じ能舞台には立たない犬王の舞と謡を世に広めるべく活動を始める。そこで、湯浅政明監督がチョイスした2人の武器がRockだった。

 友一からやがて犬王に触発され、名を変えた友有は髪を伸ばし、琵琶をギターのように弾き、巨大な琵琶と太鼓の音をベースにして犬王とは何者かを歌い叫ぶ。ここで友有の声を演じ歌う森山未來の絞り出すような声が、耳を引きつける。浪々と語られる琵琶法師たちの平曲とはまるで違った友有のストリートでのパフォーマンスは評判を取り、犬王への関心を誘って河原でのお目見えへと向かわせる。

 そこで繰り出された犬王のパフォーマンスもまた、舞台でしずしずと舞われる定型の中に美を見出す猿能楽とはまるで違った驚きを観修にもたらし、たちまち評判となっていく。歌うのは「女王蜂」のメインボーカルを務めるアヴちゃん。底からせり上がり上から降り注ぐ自在な声で聴く人を翻弄しては、犬王の世界へと誘い込む。

 発生した当時は異端でも、今や伝統芸能の代名詞となった歌舞伎に立体映像が持ち込まれ、歌舞伎役者とボーカロイドが共演してボカロ曲に乗って舞い踊る「超歌舞伎」ですら驚きに溢れているのだから、もしも本当に室町時代に友有や犬王が見せたパフォーマンスが行われたら、さぞや世間を唖然とさせただろう。そうしたパラダイムへの挑戦を、湯浅政明監督はRockの登場が引き起こした熱狂になぞらえて描いたところが、『犬王』というアニメーションの設定的な面白さだ。

 なおかつ犬王が河原で、寺社で、庭園で見せるもはやイリュージョンとも言えるパフォーマンスを、室町時代ならではの道具立てで“実現”させてしまった力業にも感嘆させられる。ジェネシスのフィル・コリンズが世にもたらし、今やライブやフェスで不可欠となったコンピュータ制御のサーチライトを火とシェードと人力で作り出し、見上げるような垂れ幕への映像投影も火とマスクによってやってのける。

 飛ぶ犬王をつり下げたのは木を繋いだクレーン。それで水面をすれすれに走りながら腕を取り戻し、肉体を取り戻した犬王の優美さはアニメーションでありながら、あるいはアニメーションだからこそ見る人を幻想の境地へと引きずり込む。

 干した魚に蠅がむらがる漁村の生々しい描写があり、目を切られた友魚の見える光と影の世界の描写があり、長い腕を伸ばして疾駆する犬王の奔放な描写があり、激情を吐き出すような友有の歌と演奏のアクションも交えた描写があり、犬王が見せるパフォーマンスの数々への驚きを誘う描写がありといった具合に、シーンによって様々なアニメーションとしての表現も素晴らしい。

 過去にもシンプルな線で形を描いてそれを動かし、やがて線を崩してシュールな動きだけで見る人を圧倒して来た湯浅政明監督ならではの、現時点での到達点がすべてにおいて見られる。それがアニメーションとしての『犬王』だ。河原での藁で作られた無数の腕が蠢き、けれども切り払われる場面のアニメーションなど動きも構図も抜群。見逃すなと言っておこう。

 そうしたアニメーションによって綴られる物語はやがて、残酷とも言える帰結へと向かう。犬王と友有を待っていた運命。それを描く上でもまた、Rockが有効だった。商業となり、産業となり権威となって取り込まれ、不満のエネルギーの受け皿となっていったRockだったからこそ、同じような運命を辿った犬王と友有の苦悩と無念をそこに象徴させられた。

 これがRickだったら。一時の熱狂は得てもすぐに歴史に埋もれ、省みられることはなかっただろう。いや、そのRickですら時を経てダンサブルなビートとセクシャルなボイスとノスタルジックなファッションを再評価され、現代に蘇っている。ならば、魂として死に、様式として長らえ、衝動として燻るRockと同じような過去と現在を経て、原点に戻り再開した犬王と友有が、未来に新しい衝撃をもたらさないとも限らない。

 それが見たい。(タニグチリウイチ)

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?