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パイサーン師の説法~目的地は次なる一歩:タム・キットとタム・チット〜



【今日は無料で全文読めます】

タイの森の寺、スカトー寺の住職
パイサーン・ウィサーロ師の説法をお届けします。

12月1日から8日まで
タイの森の寺を歩くタンマヤートラ
(法の行進)というイベントが行われています。

400人ほどの人が
気づきを高めながら歩くこのイベント。

昨日の朝、パイサーン師が
説法されたものを今日は
無料でお届けします。

ただただ歩く。

気づきながら、歩く。

自然環境の大切さを学ぶ目的もある
タンマヤートラですが
同時に自分自身についても
学んでいきます。


では、訳したてホヤホヤの
昨日の説法。
一緒に歩いている気持ちでどうぞー!

。。。。。。。。。。。。
(2016年12月6日 朝の読経後の説法)

良き人生の2つの条件

(有名なお坊さんである)プッタタート師が
かつてこうおっしゃっていたことがありました。


「良き人生というのは

 心が穏やかで静かでありつつ

 有益な行ないをなすことである」

と。

短い言葉ですけれども
仏教を学んでいる私たちの生きる道
この人生でなすべきことが
凝縮されている言葉のように思います。


良きことをしながら、心穏やかでないこともある


私たちはしばしば
他の人のために精一杯尽くす行いをしていながらも
心は穏やかで静かではないことがあります。

良きことをしているのに
ストレスを溜め込んで
心が苦しみにさいなまれることもありますね。

それではまだ
より良き人生の歩みに
完全には達してはいません。

心穏やかだが、なすべきことをしていないこともある

逆もありますよ。
心はリラックスして
サバイサバーイ(タイ語でリラックスの意)だけれども
なすべきことはちっともやらず
何もしてない。

誰を手助けすることもせずにいる。

これもまた正しくありません。

たとえ心が静かであっても、
他の人のためにも何もしてないのであれば
それは本当に心が静かであるとは言えません。

ある人たちは
心が穏やかでないばかりではなく
有益な行いも、他者の役に立つ行いもしてない人もいますね。

そういう人は
さらに人生が重々しく
苦しいものになってしまうでしょう。


「なすべきことをやり
 心は穏やかで静か」

この2つの点は
私たちがどんなことをしている時でも
重要なことです。

タム・キットとタム・チット

 この点をもう一つの側面から
観てみることにしましょう。

 人生において必要かつ十分な条件は

タム・キット(身で行なうべきことを、行なう)

タム・チット(心で行なうべきことを、行なう)

 です。

仏教は心のことだけを教えていると
誤解する人がいますけれど
そうではありませんよ。

ちゃんと身で行なうべきことも
教えてくれています。

この2つはいつ、いかなる時であっても
同時に実践していくことが大切なのです。

例えば、私たちは
先ほど慈悲に関するお経を唱えましたね。

メーター(慈悲)のお経を唱えると
私たちの心は静けさを取り戻していくことができます。

そして私たちは知っていますね。

4つの心、4つの行い

慈悲というのは
プロムウィハーン シー(四無量心)の
教えの中に列挙されています。

慈・悲・喜・捨

(慈しみ:共に幸せを願う心)
(悲しみ:自他の苦しみを取り除こうとする心)
(喜び:共に喜ぶ心)
(捨:平静で穏やかな心)

この4つの心を高めていくことが
大切であると教えてくださっています。

しかし、実はこれだけではないのですよ。
行ないに関する4つの教え
サンカハワトゥ シーというのがあるのです。

これは心ではなく
行ないについて私たちがなすにふさわしい
4つの事柄です。

1つめが「ものの布施」

ものやお金などを捧げることですね。
お坊さんにだけ捧げるのではありませんよ。
自分に施すことのできるものを
必要な他者に差し上げていくこと。

2つめが、「言葉での布施」

これは言葉によって他者を励ますこと
時に注意を促すことも含まれます。
慈悲の心から出てくる言葉を
丁寧に使うということ。

3つめが、「身で行なう布施」

これは今の言葉で言えば
ボランティアということになるでしょうか。
あるいはラーマ九世国王を思い出すといいかもしれません。
先代国王は、貧しい地方をあちこちを自ら訪れて
貧困にあえぐ国民たちの助けになることを
たくさんしてくださいましたね。

4つめが、「継続的に苦楽を共にすること」

行ないというのは
いい時だけでやって
悪い時にはやらないというのではなく
継続的に行っていくことが大切です。
自分一人だけではなく
仲間と共に実践することも重要なことです。


この4つが
私たちが行なうにふさわしい
実践のポイントとなります。


心で行なうこと
身で行なうこと

この2つはどちらも大切なのですよ。

仏教徒は何もしてない?

仏教徒は
「心で思っているだけで、何もしてない」
と思っている方もいますよ。

実際、キリスト教を信仰している方々は
学校や病院を建設して
人の役に立つような実践をよくやっていますから
その人たちに比べて仏教は
心の面だけを強調しているように思われているのですね。

私はよく病院に
ボランティアの方を連れて訪ねにいくことがあります。

その時に看護師さんが

「みなさんはキリスト教を信仰されているのですか?」

と、質問されることがあります。

仏教徒の人は
あまりそうしたボランティアに関心がないように
思えるといいます。

慈悲はというのは
ただ心で思っているだけでは不十分なのですよ。

ブッダの最後の教え

先ほど私たちは
パチモワート(ブッダの最後の言葉が書かれた説法)の
お経を唱えました。
そしてそこには
肉体を洞察する大切さもまた書かれておりました。

注意深く味わってみてくださいね。

それは「無常である」
ことについて語られていますよ。

ブッダの最後の言葉には

肉体は滅びていくものであり
それは自然である。
なすべきことをおそろかにしないこと。
怠らずに良きことをしておくこと。

そうした内容を
遺して下さっています。

これはどういう意味でしょうか。

私たちはいつ死が訪れるか
誰にもわかりません。

良きことをなすチャンスがあるべきときに
それをきちんとなしていくことが大切である
という意味なのです。

そして同時に心は「手放す」ことを学ぶ
ということなのです。

無常であるということは
生じたら、必ず滅するということです。

肉体には必ず変化が生じます。
しかしその肉体・そして感覚の変化によって
心まで装飾していかないことが重要です。

私たちはときに
体が変化していくと
思考で様々に飾り立てて
不安や苦しみを作り出してしまうのです。


病気になったり、
体が痛くなったとしても
心がうろたえたり、おろおろしなくてもいいのですよ。

体のケアが必要であれば
病院に行って手当てを受けること。
これはもちろんOKです。

でも同時に
心が心配で揺り動かされたりしないことです。

手放すことは心が何かにしがみつかないということであって
具体的なケアを何もしないということではありません。


実践すべきもの手放して、
何もしないということが
実際は問題を生み出すのです。

雨漏りがしたら、修理しなさい

森のお寺で修行された
有名なルアンポー・チャーのお話があります。

ある弟子がクティ(僧坊)に
大きな穴が開いて雨漏りをしていたにも
かかわらず
その中で座って瞑想していました。

ある日、ルアンポー・チャーが
それに気づいて

「どうして屋根に穴が開いているのに
 何もしないんだい?」

とたずねました。すると弟子は

「私は手放す修行をしているので
 雨漏りがしても気にしません」

と言いました。

ルアンポー・チャーは彼をたしなめました。

「手放すということは、
 何もしないということではないんだよ。
 屋根に穴が空いていたら
 きちんと修理をすること。
 苦しみなきように智慧を使うことが
 大切なんだよ」

と弟子に伝えました。

なすべきことをやりつつ
心は執着から離れていること。

これが重要です。

何をするのにもそうですよ。

仕事だってそう。
誰かを手助けるのでもそうです。

また日常生活の中でもそうです。

顔を洗う
トイレで用をたす
皿を洗う
ご飯を食べる

そうした一つ一つの実践も
しっかり気づきを持ってやりながら
心はしがらみから離れていること。

良き実践はよくやっていても
心の実践を同時にやっているでしょうか?

それは
心を休めながら、やることです。

良き実践をしていながら
心が熱くもえたぎるようになっている人がいますよ。

扇風機のように人助けをしない

それはまるで
扇風機のようになっています。

扇風機は
他の人に涼しさを与えていますが
扇風機自身は熱がこもって
熱くなってしまっているでしょう?

そんなふうになる必要はありません。

私たちは自分自身が穏やかで涼しさを持ちながら
他者へも涼やかさを与えることができるのです。

プッタタート師は

「仕事とは、修行である」

とおっしゃいました。

一つ一つの仕事に気づきを向けることが重要です。
そして思考でぐるぐる考えに取り巻かれない。

一生懸命やるけれど、
心は軽やかにやる。

これは矛盾しないのですよ。

毎日、終わっているよ

ある時プッタタート師は
師の拠点であったスワンモークで
建物を建てていました。

半分くらい出来上がっている時に
長らく旅をしていた弟子が戻ってきた

「プッタタート先生。
 あの建物は完成しましたか?」

とたずねました。

 師は

「ええ、終わったよ」

と言いました。

しかし実際に建物を見てみると
まだ半分しか終わっていません。

不思議に思った弟子は戻って
まだ建物は完成していないというと
プッタタート師はこういったのです。

「終わっているよ。
 毎日、終わっているんだよ」

と、おっしゃいました。

私たちは何か仕事が終わったら、
心がホッとするでしょう?

その時、もう心配はなくなります。

プッタタート師はいつもいつも
何をしている時でもそうだったのですね。

いつも心は軽やかなまま
なすべき仕事をやっていた。

だから、毎日毎日終わっている、と
おっしゃったのです。

仕事は心を軽やかにしながらやるのです。

心を重くしながらやるのではありません。

心に勝手に起こってくる思考や感情を
置いておきながら
仕事をやっていくのです。

私たちも、できますよ。

結果を置いておきながら
仕事ができるのです。

心は、いつ終わるの?
いつ終わるのを思いながら仕事をしていたら
どんどん心は重くなっていくでしょう?

目的地は、次の一歩

今私たちが実践しているこのタンマヤートラも
そうですよ。

もう、いつになったら着くだろう?

そう思いながら歩いていたら
心を置いていないで
歩いているのと同じですよ。

いつ完成するのだろうか?
完成してどうなるのだろうか?
他の人がどう思うのだろうか?

アメリカで布教された
日本の禅のお坊さんの鈴木俊隆という方がいます。

もうかなりお年を召された時でしたが
ある時アメリカ人の若い弟子たちと
森で作業をしていました。

一日中作業をしていたにもかかわらず
鈴木老師はちっとも疲れた顔を見せずに
淡々と仕事をこなしていいらっしゃいました。

若い弟子たちはすぐにバテてしまい
へたばってしまいます。

弟子たちはなぜ
老師がそんなに疲れずに仕事ができるのか、と
聞きました。

すると鈴木老師はこう言いました。

「なぜって、私は
 ずっと休んでいるからだよ」

と。

あれだけ体を動かしているのに
ずっと休んでいる?

それは体は動いているけれど
心は休みながら実践しているのだということを
老師はおっしゃっていたのでした。


弟子ももちろん一生懸命作業をしていましたが
心が真剣になりすぎて、シリアスでした。

でも老師はなすべきことは一生懸命でも
ちっともシリアスではなかったのですね。

心を休ませ、静かで、苦しみなく
なすべきことをやる。

それは同時にできるのです。

私たちも、トレーニングできますよ。

一緒にやっていくことができます。

一歩、一歩。

この一歩、この一歩。

足の一歩一歩が目的地です。

まだ到着してないところが
目的地なのではありません。

一歩歩けたら、次の一歩が目的地。

もう一歩歩けそうだったら、歩く。

着くだろうか? などと心配はしない。

それは、未来のことですからね。

私たちがなせるのは今、ここ。

最初に思い描いた通りに
完成するかどうかは、また別の話です。

なるべきように、なるのです。

私たちがなせることは
原因の一つ一つを作り出すことだけ。

結果は自然のなせる技。

原因と結果の法則によって
物事が起こってきます。


私たちが今ここで
自分になすことができる精一杯の
原因を作ることが大切ですね。

気づきを持つことですよ。

前も見るが、今も見る

もちろん歩くときには
前を見ますけれど
同時に、今ここの心を観る。

前も見る(行いのために)
今を見る(心の穏やかさのために)

心に苦しみがなければ
長く歩いていけますよ。

一瞬一瞬、今ここに戻っていきましょう。

子供を育てることも同じですよ。

多くの人たちは
子育てを苦しみだと感じていますね。

子供を育てることは
子供がこうなってほしいという執着だけではなく
親自身の執着がありますよ。

子供が親の思い描いた
通りにいかないと心配になってしまいます。

それは、
親である自分の期待に執着して
苦しんでいるのです。

そうなると
子供も苦しみ
親も苦しみます。

年老いた親に対する世話も同じですよ。

世話をするのは親孝行で良きことですけれど
心の執着があったままでは
心がどんどん疲れていきます。

親を心配して、他の人に任せられず、信頼できない。
心を休ませられないでいるのです。

私たちは心を休ませながら
実践していくことを学んで行きましょう。

なぜこんなに良いことしたのに
あの人に褒められないのか?

などと期待をしないことです。

フェイスブックにいいね!が
つかないとがっかりする人がいますよ。

いいねがついてもつかなくても
今ここで良きことをしていきましょう。

毀誉褒貶はチューインガム

人から褒められると嬉しい気持ちが生じますが
そうした毀誉褒貶は
チューインガムと同じです。

かんで味わったら、
捨ててしまうこと。

ガムは飲み込まないでしょう?

捨ててしまうんですよ。

忘れないでいてくださいね。

なすべきことは、一生懸命やる。

でも心は手放すして
シリアスにならないこと。

責任を持って、シリアスにならないこと。

心に生じてくる
「この俺は!」「この私は!を手放していくことです。

その心がある時
私たちの心は純粋ではありません。

私たちが今、ここタンマヤートラに参加していること。

この機会をぜひ活用してくださいね。

タムキット(身でなすべきことを、行う)
タムチット(心でなすべきことを、行う)

一歩一歩を
心軽やかに歩いてまいりましょう。

。。。。。。。。。。。。

浦崎コメント

タンマヤートラ。

法の行進、一歩一歩。

私たちも一歩一歩。

なすべきことをなしながら
心穏やかになっているだろうか?

タンマヤートラの参加者だけではなく
私たちが何をしている時でも
大切なメッセージを
お届けしました。

お役に立てれば、幸いです!


(ここで終わりです)

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