バツ印

夢の話(不思議な神社)

2016年8月29日、月曜日。午後になって、とても身体が怠くなる。ただ椅子に座っているだけでも、ひどくどんよりとしてしまい、体が重たく感じられるようになってきた。迷走する大型台風が関東に接近しつつあり、晴れたり曇ったりする変な天気だった。気分的にもかなりぼんやりしてきてしまったので、ちょっと横になって休むことにした。何となく近くにあった本を手にとってページをめくってみた。ルソーの独特のくどい文章を読んでいたら途端に眠くなってきて、本格的に昼寝をすることに決めた。そのまま小一時間ほど寝てしまった。そして、その短い睡眠の間に不思議な夢を見た。寝たはずなのに余計に身体が重く感じられてきてしまうような夢であった。目が覚めて意識が戻りつつある間も、上半身の胸のあたりにずっしりとした重苦しさがあり、目を閉じたままの状態で仰向けに横たわって、今まで見ていた夢の内容を反芻して考える時間がしばらくあった。やっとはっきりと意識が戻って目を開けて起き上がると、時刻はちょうど午後4時だった。そろそろ散歩に行くために準備をしなくてはならない時間であった。

夢の中でもわたしは近所をふらふらと散歩をしていた。いつものように近くの神社や寺をまわって、あてどなくウロウロと歩き回っていた。そして、ふと思い立って、児童相談所の裏手にある神社を見に行ってみることにした。そこは住宅街の中の細い道路に面した場所でありながらも、神社自体の建物はほとんど人目につかないような造りになっていた。そのあたりの普通の家と同じようなブロックの塀が、全く同じ位の高さでしっかりと神社をぐるりと囲み込むように築かれていて、道の方から見てもその中がどうなっているのか分からないようになっていたのである。神社は実際にごく普通の家の前にあって、ブロック塀に囲まれて周辺の住宅街の景色に完全に同化していた。その神社の塀に囲まれたスペースそのものが、隣接している家々の並びの中に完全に埋没してしまっていたといってもよいだろう。よくそのあたりのことを知らない人は、そこも普通の家の塀が続いているものだと思って、古い神社があるとは全く気づかずに通り過ぎてしまうような場所となっていた。
そこそこの高さのある塀は神社の敷地をグルグルと二重三重に取り巻くようにめぐらされており、狭い路地の道なりに変則的な三角形をなしている敷地の内部を見るには、細くて狭い塀と塀の隙間に横歩きで潜り込んでゆくようにして内部に向かって少しずつ進んでゆかなくてはならなかった。そして、三角形の敷地の鋭角な頂点のところの角の塀の隙間から頭を横に倒し内部に突っ込むようにして見てみると、普通の神社であれば鳥居が立っているべき場所に二本の立派なトーテムポールがそびえていた。赤茶色の太いトーテムポールには、様々な神様らしきものの顔が縦にも横にもびっしりと並んでおり異様な威圧感を放っていた。
二本のトーテムポールの間には平らな長方形の石を敷いた細い参道があり、それがずっとずっと奥まで続いていた。そこで唐突に耳許に聞こえてきたのが、そのトーテムポールのことを解説してくれる何ものかの声であった。この二本の柱は日本の神社では滅多に見られない珍しいものであり、それだけにこの神社が非常に特別な意味をもつ場所であるということを示しているのだと教えてくれた。まさにその通りの荘厳さをもつ二本のトーテムポールを眺めて、狭い塀と塀の間から首を傾げるようにして突っ込んだ体勢のままで、携帯電話を開いて何枚も写真を撮りまくっていた。
だが、これを見ただけでほぼ満足してしまったのか、次の瞬間には近くの別の神社や寺を訪ねるために普段の散歩コースに戻ってしまっていた。しかし、少し後になってから、入口のところのトーテムポールしか見なかったことが、すごく悔やまれて仕方がなくなってきた。そして、かなり歩くことにはなりそうだが、またあの不思議な目立たぬ神社に引き返してみることにしたのである。

神社の入口にそびえる野趣にあふれる異様なトーテムポールを見て感じたのは、何ともいえない妙な安心感であった。あの二本のトーテムポールがあそこに立っているお陰で、この土地は不思議な神的な力によって鎮められ、古くから人々が安心して安全かつ穏やかに暮らせる場所となっていたのではないかと思えたのである。ここが、大昔から神が宿り、人々の信仰の対象となる、非常に特別な場所にして意味のある場所であったということが、それを見ることですぐに納得ができたのである。あの神社の存在によって、この土地が大きな自然災害や戦渦から免れることができてきたのではないかとも感じられた。このあたりは、15世紀から16世紀半ばの戦国時代に、北条や上杉などの東国の武将によって率いられた軍勢が入り乱れて、幾度となく激しい戦いを繰り広げた場所でもある。その当時から、あの神社はここに存在していたのであろうか。もしくは、その凄惨な戦乱の後に血塗られた地を鎮めるために、あのトーテムポールは立てられたのであろうか。いや、やはりそれよりも以前の時代に、目の前に肥沃な平野が開けた豊かな土地があるために古くから常に所領の諍いが事あるごとに起きていた歴史を受けて、いつか有力な豪族がひしめき合い群雄が割拠することとなって血塗られた凄惨な戦が繰り返されるに違いないという将来を見越した民の思いが、あの荒々しいトーテムポールを立てたのかもしれない。
(補足)
このあたりの神社や寺には、元々は古代からの古墳があったところに後から社を建てて再利用しているというケースが非常に多い。かつて現在の東京がまだ海の底にあり、東京湾の海岸線が内陸部に大きく入り込んでいた頃にも、このあたりはずっと陸地として存在していた。そのため、比較的多くの人々が海のものや山のものを採集して、このあたりで暮らしを営んでいたようだ。その痕跡が、小仙波貝塚である。穏やかに波が打ち寄せる湾の奥の海岸線の近くには、いくつもの集落ができていたのであろう。そして、この地に住む有力者が埋葬される際に(波に洗われることのない丘陵部の断崖の上に)大きな塚が築かれ、後に古墳として整備されるようになっていった。元々そこにあった小高い丘や丘陵地のデコボコな地形を利用して古墳としたこともあったのだろう。そして、そうした塚や古墳が、人々の日常的な祈りの場となり、周辺の土地の守り神となり、信仰の場として人々が集まる場となって、そこに隣接するように(もしくはその塚や古墳の上に)神社や寺が建立され、その古代からの形のままの景色をほぼ現代にまで伝えている。
では、その原初の時代にまで遡って、古代の人々が土地の有力者を埋葬するときに、どんな場所を特に選んで死者を弔ったかということを考えてみたい。なるべくなら、地震や台風や竜巻や洪水や津波などの自然災害の被害に遭いにくい安全性の高い場所を選んだのではなかろうか。有力者の埋葬された塚や古墳は、その地域の生活の豊かさや穏やかさ、繁栄と平和の象徴でもあっただろうから。そうしたものを、わざわざ災害の危険性の高い場所には築かなかったであろうし、わざわざ作ったものをそう度々災害に見舞われて一から作りなおすというわけにもいかない。よって、当時すでに歴史的な記憶や言い伝え・伝承から明らかにされていた、地震や洪水などの大きな災害から何らかの力によって守られているようなある種の神聖さをもつ場所を選びに選んで、埋葬地を構築してゆくことになったのではなかろうか(だからこそ、それは長い年月を経てもなお崩れたり風化することなく、今もまだ古墳らしい土地の形状をとどめているのである)。また、そういう聖なる場所に築かれた塚や古墳であるからこそ、古墳時代の後にも人々によって長い間ずっと祈りを捧げられる信仰の場にもなっていったのであろう。
このあたりで神社や寺にゆくと、結構な街中であるにも拘わらず(そこに古墳がなかったとしても)必ずといってよいほど樹齢何百年というレヴェルの大きく高い木を見かける(神社や寺などではない、普通の住宅街の中にも鬱蒼と高い木が生い茂っている場所があったりする。これは、かつては城の内部や馬場に生えていた木であったり、大きな武家屋敷の敷地や今はもうない神社や寺の境内に生い茂っていた木の生き残りなのではなかろうか)。こうした木々が何百年もこの地に生きているのだということも、ここが木々にとっても非常に穏やかな気候で大きな自然災害にあまり見舞われずに安心して暮らせる場所であったことを伝えてくれているように思われる。まるで、大きく立派な木が、ここは昔からとても安全な土地だから安心して暮らしていてよいですよと語りかけてくれているようにも感じられるのである。だから、古墳の跡や高い大きな木を見ると、何かとても大きな存在に守られているような実に穏やかで平和な気分になる。それは、ずっとずっと昔からここにて、今は古墳や神社や大木に姿を変えて、この地を見守ってくれているものの表れの一端でもあるのだろうから。

再び神社に戻ってみると、境内では何かの儀式が執り行われているようだった。疎らではあったが、あちこちに見物している人がいて、神社の社殿の前で行なわれている儀式を静かに見守るようにして眺めていた。よく見ると、とても小柄な宮司が境内をあちらへこちらへと慌ただしく走り回っている。その様子を人々は神妙な面持ちで見つめていたのである。それは、この神社にとって、とても重要な意味をもつ儀式のようであった。宮司は境内を縦横に走っている石が敷かれた細い参道を、何らかの順序に従って巡り巡って走り回り、ひとつのセットになっている順路を巡る走り回りが終わるたびに、社の前に戻ってきては深々と頭を垂れ丁重な祈祷を繰り返していた。しかし、そのちょっとだけ一息つけそうな静かな参拝の動作を行なう前と後には、参道のあちこちに置かれている鐘や儀式用の剣や器、そして境内の大きな石などに手で触れて、グルグルと右に行ったり左に行ったり忙しく駆け回らなくてはならないのである。
儀式を見ている人々がひそひそと話す声が聞こえてきた。すでに宮司は500回以上も祈祷を行なっているが、走る勢いは全く低下していないのだそうだ。それに、あの目にも止まらぬ速度で境内を飛び回り続けるのは、普通の人には到底難しいことであり、おそらくは宮司でなければ途中でひっくり返って泡を吹いて倒れてしまうのではないかということであった。その間にも、まさに宮司は目にも止まらぬ速度で動き続けていた。社の前で厳かに手を合わせていると思ったら、次の瞬間には参道の右側の奥の鐘のところにいて、その次の瞬間には境内の奥の方の石碑にタッチしていた。そして、気がつくと再び社の前にきて手を合わせて丸く身を屈めるようにして恭しく拝んでいるのである。
だが、よく考えてみると、民家の前の路地に面した、自動車でいうと縦に二、三台ぐらいが入るか入らないかというような長さのスペースにおさまっている、塀で囲まれた小さな神社であったはずなのに、その神社の境内がこんなにも勢いよく宮司が走り回れるくらいの広さであったことは、とても不思議なことではあった。
すると、さらに不思議なことがそこで起こったのである。儀式が執り行われている境内に、ちょっとその場と不釣り合いな雰囲気の男が、フラフラッと入ってきたのである。よく見ると、野球のユニフォームを着て運動靴を履いている。ニヤニヤしている顔には見覚えがあった。元巨人軍の投手、定岡正二が、そこに現れたのである。野球の試合を終えたばかりなのか、顔はテカテカと汗ばんでいて、ユニフォームのズボンには球場の土が付いていて、あちこち焦げ茶色に汚れていた。よく見ると上半身はすでにユニフォームを脱いでいて、アンダーシャツ姿であった。定岡の家族か親戚が神社での儀式を見学に来ていたのか、境内の見物人の一団につかつかと近寄ってゆくと「草野球のメンバーに飲み物を買ってやらなくちゃ」などと少し大きめの声で楽しそうに話をしていた。
そのとき、以前にもその神社で定岡を見かけていたことをはっきりと思い出した。以前にもこの神社のことを夢に見たことがあったのである。その時にも定岡はなぜかその神社の境内にいたのだ。とても不思議なことであった。この神社の敷地は狭いのか広いのか、一体どうなっているのだろうか。そして、定岡とこの神社には、どんな関係があるのだろうか。

後から思い返してみると、あの小柄で俊敏な動きの宮司もこの世のものとは思えぬ不思議な雰囲気を醸し出していた。土色の直垂を纏い、小さな黒い烏帽子を頭に載せ、袴は膝の上までまくり上げられていた。常に中腰の体勢で、脚は膝でほぼ直角に折り曲げられている。上半身は常に前屈みで、腰はくの字に折り曲げられたままだ。とても腰の低い低姿勢を絵に描いたような小柄な宮司であった。そんな宮司が、まさに飛ぶ(跳ぶ)ように境内を隈無く駆け回り、不思議な儀式を執り行っていたのである。あらためて考え直してみると、あの宮司には蛙の化身なのではないかと思えてくるものがあった。いや、実は蛙そのものだったのではなかろうか。だからこそ、常にあんなに脚を折り曲げた前屈みな姿勢でいたのだろうし、あんな色の着物を着ていたのであろう。そして、勢いよくピョンピョンと跳び回ることのできる蛙の宮司であったからこそ、あの十数メートルほどの長さの小さなスペースを飛び回るようにして動き続けることができていたのではなかろうか。神に仕える宮司が蛙ということは、あの神社に祀られているのは蛇か狐といったところであろうか。謎が謎を呼ぶ。

そういえば、夢に見た神社のあった場所のすぐ近くで、古い(昭和30年代頃に建てられたものと思われる)平屋建ての民家が取り壊しになり、アッという間に更地にされてしまっていた。家に使われていた木材や解体作業で出た塵芥類は全て回収されて、すっかりそこから無くなってしまっていた。だがしかし、なぜかそこに石でできた縦横約60センチほどの大きさの石の中央を丸くくり抜いた手水鉢だけが残されていたのである。
なぜ、そんなものだけがそこに残されていたのであろうか。簡単には処分できないような、古い歴史や謂れのあるものだからなのであろうか。こうなると、あの手水鉢についても、いろいろと考えを巡らさずにはいられなくなってくる。
もしかすると、その手水鉢は、あの神社の境内にあったものなのではないかとも思えてくるのである。あの小さな蛙の宮司がぴょんぴょん飛び回っていたのは、そうした石の手水鉢などが置かれていた神社の参道だったのではなかろうか。古い家が取り壊されても、この手水鉢だけが処分されずに残されるというということは、それなりに由緒のあるものだったからなのではなかろうか。かつて、ここにあった神社やお寺の境内で実際に使われていた手水鉢が、今の時代にまでここに残されて伝えられていたということなのではなかろうか。
こうしたものが実際にわたしの目の前に(何とも意味ありげに)あるのを目の当たりにしてしまうと、あの夢に見た不思議な神社は、かつてここに実在したのではないかと思えてきたりもしてしまうのである。

また、同じ町内のすぐ近くには妙義神社という小さな神社がある。この神社が、あの夢に出てきた不思議な神社と何らかの関係があるのではないかと思えてきたりもするのだが、それほど直接の関わりや繋がりはないようである。なぜなら、今あの場所にある妙義神社は、昭和40年頃にここに移設されてきたものであるらしい。現在は宮元町の住宅街の真ん中に埋もれるように、ひっそりとそこに建っている。今から約半世紀ほど前、ここに移ってきた当時は、まだ周囲には田んぼや畑も多く見られたのだと思われるが、そのかつての風景の面影はもうほとんど残ってはいない。
妙義神社が、それ以前にどこにあったのかというと、近くを流れる新河岸川(赤間川)の川の向こうの志多町の川縁にあったようである。距離にして約200メートルほど北西へ移動したことになるだろうか。そのかつての志多町にあった妙義神社は、江戸城や川越城を築城した太田道灌の屋敷に隣接する場所にあったといわれている。道灌の屋敷は、後に川越夜戦(1546年)の舞台となった東明寺の北東側一帯がその敷地となっていたようである。屋敷の南側には自らが築いた堅固な守りの城があり、西側は大きな寺(東明寺)となっていて、北と東側は新河岸川がぐるっと蛇行するように流れているため屋敷を取り囲む天然の堀となっている。いかにも知将の道灌が屋敷を構えそうな場所ではある。そして、その広い屋敷の敷地の北側に隣接している川縁の橋のたもとに妙義神社はあったようだ。
文政11年(1828年)に編まれた「新編武蔵風土記稿」には、太田道灌が文明3年(1471年)に東京駒込の妙義神社で戦勝祈願を行なったという記述がある。おそらく志多町の妙義神社は、戦勝祈願のために道灌が屋敷の隣りに建立したものであったのかもしれない。川越城の築城は、長禄元年(1457年)のことであった。道灌が東明寺の東に居を構えたのも、それと同じ頃であったはずである。よって、日本武尊を祀る妙義神社を志多町に建てたのも、その頃のことであったのではなかろうか。
また、江戸時代にまとめられたものである「新編武蔵風土記稿」には、太田道灌の屋敷跡は、19世紀頃には天台宗の長久山照善院という寺院となっていて、その寺の敷地の一画に当時を忍ばせる大日堂と妙義社が残っているというような記述がある。その「新編武蔵風土記稿」の編纂より34年前の寛政6年(1794年)に画かれた古い地図(「川越藩日記」)には、はっきりとそれらしき場所に(太田道灌の屋敷跡と関わりのある)大日堂の位置が書き込まれている。現在の新河岸川に架かる道灌橋の志多町側(東側)のたもと、ちょうど道に面したあたりに大日堂はあったようだ。後の「新編武蔵風土記稿」の記述通り、そこはかつて15世紀の半ば位から太田道灌の屋敷があったあたりなのである。
しかしながら、その大日堂のあたりが照善院という寺の一画であるということを指し示す記載は一切ない。寛政年間の古地図を見る限り、かつての太田道灌の屋敷跡が照善院となっているという「新編武蔵風土記稿」の記述は、にわかには信じがたいものとなってきてしまうのである。寛政6年のこのあたり一帯は、東明寺の東側だけでなく、その西側や北側も含めて、新河岸川の両岸のかなり広大な土地が、郷分とされているのである。
つまり、太田道灌が文明18年(1486年)に相模国で主君である上杉定正によって暗殺され、天文15年(1546年)の川越夜戦で北条氏康により扇谷上杉家が滅ぼされる頃には、かつての道灌の屋敷のあった場所や所有地は全て郷分となってしまっていて、天台宗の照善院が管理する土地となっていたということなのではなかろうか(このあたりには、天長7年(830年)に慈覚大師が創建した喜多院(無量寿寺)の末寺として長徳寺や天然寺などの天台宗の寺院が9世紀頃から建てられてる。もしかすると、長久山照善院もそれらとならぶ古い有力な寺院であったのかもしれない)。その広大な郷分のどこかに照善院はあり、照善院が管理する土地の一画(新河岸川の志多町側の川縁)に大日堂(と妙義神社/妙義社)があったのであろう。現在の妙義神社がある宮元町の住宅街も、このかつての郷分の北の外れ付近に該当しているものと思われる。そして、その郷分の先には、当時はまだ見渡す限りの田園地帯が広がっていたはずである。
(注)もしくは太田道灌の屋敷跡は、その後は郷分となって東明寺か照善院の前身となるような寺社などによって管理されていたのだが、寛政6年(1794年)以降に長久山照善院として整備され、その段階で文政11年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」に記載されたのだと考えることもできる。その場合、照善院という寺院は19世紀の江戸時代の文化・文政期から明治の初頭にかけての約70年ほどの間にだけ存在したということになる。

現在の宮元町にある妙義神社に行ってみると、社殿の隣りの片隅に今はなき照善院の境内にあったものと伝わる石仏や手水鉢などがひっそりと並べられている。当時の庚申塔や供養塔などがいくつか残されているのである。この数少ない石仏群だけが、江戸時代には郷分であった場所にかつて照善院が存在していたということを伝える歴史的遺物であるようだ。そして、その背後にある看板には、ひとつひとつの石仏の説明とともに、妙義神社と照善院の歴史についても簡単に書かれてある。
それによれば、明治10年(1877年)に起きた大火事によって照善院は全て焼け落ちてしまったという。かつての太田道灌の屋敷跡とその周辺部が郷分とされていたのだと思われるが、その一帯が火災に見舞われたということなのであろう。そして、現在も妙義神社の境内に残されている石仏だけが、辛うじて損傷も少なく焼け跡から回収されたということなのだと思われる。その火事の後の27年間は、郷分のことも照善院のことも半ば忘れられたままになっていたようである。そして、ようやく明治37年(1904年)になって妙義神社のみが再建されている。
現在の妙義神社の境内にある看板の解説によれば、焼失した照善院が再建されることがなく、かつての大日堂・妙義社の一部でしかない妙義神社のみが再建されたのには、当時の明治新政府が発令した神仏分離令に基づく廃仏毀釈の動きが影響したのではないかと推測されているようだ。だが、本当にそれだけの理由であったのだろうか。やはり、あのあたりの郷分一帯を管理していた照善院ではなく、わざわざ小さな妙義神社だけを再建したのには、それなりの理由や経緯があったからなのではないかとも思える。15世紀半ばにそこに太田道灌が屋敷を構えて以来、志多町の新河岸川の川縁の橋のたもとにあった大日堂・妙義社は、400年以上もの長きに渡り人々の信仰の対象となっていたのであろう。そうしたことと何らかの関係があるのではなかろうか(もしかすると、照善院そのものは、太田道灌の死後、戦国時代末期から江戸時代初期にかけてに創建された、土地の人々にとっては比較的新しい寺院であったのかもしれない。同じく天台宗の寺院である喜多院も実際に土地の有力な寺社となっていったのは、慶長17年(1612年)に天海僧正が住職となってからだと伝わっている)。
太田道灌はそこで戦勝祈願をしていたものと思われるが、多くの庶民にとっては毎年そこで夏場の大雨で新河岸川の氾濫が起こらないように水難除けの祈願をするような場所であったのではないだろうか。太田道灌の屋敷に隣接する大日堂・妙義社であった時代も、太田道灌の屋敷跡の郷分を管理する照善院の一画にある大日堂・妙義社となった時代も、来る年も来る年もそこで土地の安泰を祈っていたのであろう。そして、やはりどんなに時が流れても変わらずに明治時代になっても新河岸川の両岸に暮らす志多町と宮元町の人々は、毎年の水難除けの祈願のために新河岸川の橋のたもとの大日堂・妙義社が再建されることを強く望んでいたのではなかろうか。
このあたりの新河岸川の川縁には、六塚稲荷神社(高澤橋)や氷川神社(宮下橋)、神明宮(東明寺橋)などいくつもの神社が(全て川を跨ぐ橋のたもとに)鎮座している。これは、川の氾濫という水の害から土地と人々を守る神を、この地域の人々が古くから必要としていたことを示すものなのであろう(また、人々が多く往来する橋を守る神であるとともに、内と外を分け隔てる境界の役割も果たしていたものと思われる)。新河岸川の流れが南西から北東へ、そして北西から南東へとグルッと旋回するように彎曲している頂点部分にあたる志多町と宮元町のあたりは、大昔から雨量の多い夏期には度々水害に見舞われていた土地だったのではなかろうか。
だからこそ、勇猛な武将でもあった太田道灌にゆかりのある大日堂・妙義社は、付近一帯の農民や町人などの庶民にとっては非常に重要な意味をもつ社であったに違いないのである。毎年の新河岸川の水害との攻防における勝利こそが庶民にとっての強い願いであったとするならば、大日堂・妙義社での水難除けの祈願こそは庶民にとっての戦勝祈願そのものであったのではなかろうか。

明治初期の火事で焼けてしまってから27年後にようやく再建された妙義神社が、なぜ元々あった太田道灌の屋敷のすぐ脇の志多町の新河岸川の川縁の位置から、再建から約60年後に少し川縁から離れたかつては照善院が管理していたと思われる郷分の北の外れの宮元町のあたりに移設されることになったのであろうか。こちらも大いに謎である。
もしかすると、川越祭りで町内から山車を出す際に祭礼を執り行う神社がない宮元町のために、わざわざ妙義神社を志多町から移してきたのかもしれない。だが、宮元町の山車は、明治20年に祭りに参加する町を元々の城下十ヵ町のみから街の中心地の周辺に位置する九つの町も含めたものに規模を拡大したときに、すでに誕生していたのである。そして、この時点ではまだ妙義神社は志多町の元々の場所にも再建されてはいないのだ(志多町は、江戸時代に川越城主の松平信綱が定めた城下十ヵ町のひとつである)。その後、宮元町の山車は祭りの際の火災で焼失し(山車に飾り付けられた提灯の蝋燭が原因で祭りの最中に火災が起こることは、山車と山車が極度に急接近する曳っかわせを何度も行なうこともあり、かつては全く珍しいことではなかったようだ)、そのまま今に至るまで再建されてはいない。おそらく妙義神社が移転してきた昭和40年頃にはもう宮元町の山車はすでに存在していなかったのかもしれない。何となく、宮元町の山車と妙義神社の移設には、何らかの関係があるのではないかと思ったのだが、どうやらそういうことはないようだ。

妙義神社の社殿の前にある狛犬の裏側にまわってみると、そこには昭和9年(1934年)に宮元町の神山鍋吉が寄進したものであることが大きく刻されている。これは、火災による焼失から再建された妙義神社が、まだ元々の志多町側の新河岸川の川縁にあった時代のことである。また、境内に安置されている照善院の時代から伝わる石仏群の中には、文政6年(1823年)に照善院に寄進された手水鉢があり、その寄進者の中に神山清左ヱ門なる同じ神山一族の祖先だと思われる人物の名を見つけることができる。さらに現在の妙義神社の手水舎で使われている手水鉢は、昭和16年(1941年)に(宮元町の)氏子の若い衆がお伊勢参りを行なったことを記念して奉納したものであるようだ。その参拝を行なった者の中には同じく神山姓の神山進太郎なる人物の名を見つけることができる。そして、社殿の脇に掲げられている額には、(前面にガラスが取りつけられていて、このガラスに長年の汚れが付着しているせいと、掲げられている位置が高くそこに書かれている文字が細かいために、あまりよく読めないのだが)上部に錆ついた短刀が取りつけられている額面の下部のあたりに奉納を行なった氏子衆の名が列記されており、その中に神山鍋吉と神山幾之助という人物の名を見つけることができる。この額は、昭和39年(1964年)に奉納されたもののようである。ちょうど例の妙義神社の移設の時期と合致する。どうやら、この額こそが宮元町に移ってきた妙義神社の謎を解くヒントを与えてくれるものであるようだ。
だが、その問題の額について詳しく考察してゆく前に、これらの照善院や妙義神社への寄進を代々に渡り行なってきている神山家について、少しばかり記しておきたい。神山さんの家は、宮元町で酒屋兼よろず屋を営んでいた旧家であった(コンビニの時代が訪れるずっと前から存在していた地域のコンビニのような店であった。だが、今はもう酒屋は店じまいしていて、接骨医院とクリーニング店が、かつて店舗があった場所にテナントとして入っている。小泉政権時代の規制緩和の波が、こうした古くからの歴史のある日本の民衆の文化の根底をなしていたともいえる地域の人々をゆるく結びつけていた商店を次々と潰していってしまったのである)。その家は、かつての郷分のほぼ中心部に位置していて、現在の宮元町がまだ東明寺村であった時代からそこに家と商店を構えていたものと思われる。家の敷地も家の前の通りから縦に奥へと広く続いていて、庭の隅の方にはちょっとした畑があり、店舗兼住宅の裏には大きな蔵がいくつか連なっていた(神山さんの家には小中学校時代の同級生がいたため、子供の頃に何度かその広い家に遊びにいったことがあった。その広い庭や蔵のあたりで鬼ごっこや悪漢探偵をして遊び回ることができるくらいの広さだったのである)。
それだけの大きな商家であったのだから、それなりに近郷への影響力や発言力にも大きなものがあったのであろう。もしかすると郷分の管理なども実質的に行なっていてのは、この神山家であったのかもしれない(そうなると神山家と照善院の結びつきや関わりも相当に強いものがあったのではなかろうか)。だとすれば、照善院や大日堂・妙義社に手水鉢や狛犬を寄進するほどの財力があったとしても決しておかしくはない。
だからこそ、そうした古くからの土地の実力者である神山家などが中心となって、新河岸川の対岸の宮元町への妙義神社の移設が計画されることになったのではないかと思えてきたりもするのである。神山という名字は、神社との関わりの強い家系であることを示してもいる。そうした一族であるからこそ先祖代々の伝統を受け継いで、とても篤い信仰心を大日堂・妙義社に対してもっていたのではなかろうか。
その移設する場所を決める際に、元々のその郷分の人々が庚申講を行なっていたような集会所(照善院の時代から残っている石仏群には、ふたつの江戸時代初期に建てられた庚申塔が含まれている)、もしくはかつて照善院関連のお堂か社があったところに、移設先を決定したのだとは考えられないであろうか(現在の宮元町の集会所も妙義神社の境内の奥にある)。つまり、あの場所には、かなり以前から(もしかすると照善院が建立される前の時代から)後にそこに妙義神社を移してくるだけの理由になるものがあったのではないかと思えてくるのである。昭和40年頃、妙義神社の移設先を決定する際のひとつの大きな決定因として、そこが毎年のように土地の人々によって田畑の作物の豊作や河川の氾濫から土地が守られることを祈念し祈願する、古くからの土着の信仰の対象となっていた場所だったということが、大きく関係していたのではなかろうか。
そこで気になってくるのが、あの妙義神社の社殿の脇に高く掲げられている、どこか曰くありげな額である。額が納められたのは、昭和39年(1964年)の7月。実は、このタイミングこそが妙義神社の移設の時期だったのではないかと考えられないだろうか。これが、移設が決定したタイミングなのか、移設が完了したタイミングであるのかは、全く定かではないが。額面の上部には大きく「凱旋奉賽」と書かれ、その文字の真ん中に短剣が収まっている。この凱旋とは、かつての大日堂・妙義社の社が、宮元町に戻ってきたことをいっているのではなかろうか。
本来は、誰かがどこか遠い場所に行って、無事に成功を収めて帰還を果たした際に、神のご加護のお礼として凱旋奉賽というものは行なわれるものであるはずなのだが。ここで言うところの凱旋とは、果たして誰のどこからの凱旋なのであろう。町内から出征した若い兵士が太平洋戦争から帰還したことであるとしても、昭和39年ではかなり時間が経ちすぎている。また、そもそもが負けて無条件降伏した戦争であるのだから、凱旋も何もないだろう。凱旋奉賽が行なわれる場合、元々あった場所への神体の凱旋や社の凱旋ということに対しても行なわれるということは果たしてあり得るのであろうか。もしかすると、伊勢神宮参拝や富士登山などからの帰還というようなもっともらしい別の理由を見つけて、表向きにはそれを額面に記しながら、ちょうどその頃に計画されていた神社そのものの元々の場所への凱旋に対して氏子が奉賽としての短剣を寄進したのではなかろうか。
そして、その古くからあの場所にあった半ば土着的な信仰の場というのが、あの夢に出てきた不思議な神社だったのかもしれない。今はないその社殿と境内とそこで行なわれていた儀式が、住宅街の街路の隅の幾重にも取り囲まれた塀の奥という現実にはありえない場所において、夢の中で超現実的に蘇っていたということなのではなかろうか。だが、何のためにそんな極めて限定的な形で蘇ったのか。こうしてそれについて何かが書かれて、誰にも見えないはずの痕跡を、現実の世界にこっそりと再浮上させるためであったのだろうか。そうなると、ずっと前から、あの神社に呼び寄せられ続けていたことで見た夢ということになるだろうか。何なのだろう。この変な感じは。何十年も前から、あの夢を見るために自分が選ばれていて、今の今までずっとあの蛙の宮司によって草葉の陰から見極められ続けていたとでもいうのであろうか。

あの夢の神社については、まだまだ気になる点がある。そのひとつが、狭い塀の隙間から覗き込んだときに神社の入口に高くそびえ立っていた二本のトーテムポールである。その柱には、それぞれにものすごい形相の顔がくっついていた。後になって思い当たったことであるが、あのトーテムポールは、実は将軍標であったのではないだろうか。将軍標とは、朝鮮半島で集落や村落の境に立てられていた道祖神のことである。元々は、人の世界と神の世界の境界に立ち、ふたつの世界を隔てる標であり、古くからの土着的な信仰の対象であったという。二本の柱は、男性を女性を表しており、上部に人面が彫られるようになった。そんな将軍標らしきものが、なぜかあの夢の神社にもそびえていたのである。しかしながら、よく考えてみると、新河岸川流域の北側にある宮元町という場所にとって、それは遠い海の向こうのものでは決してなかったはずなのである。すぐ隣りの日高市に行けば、高麗神社や聖天院、西武鉄道の高麗駅の駅前など、至る所で立派な将軍標を目にすることができるのだ。
高麗神社は、高麗王若光を祀る神社である。高麗若光は、668年に唐と新羅に攻め込まれて滅亡した約700年間も続いた大国、高句麗の王族の血を引く人物であり、国を失い遺民となり海を渡って日本に亡命をしている。大宝3年(703年)に朝廷より若光は王姓を賜り、霊亀2年(716年)には武蔵国に高麗郡が設置されることになる。この東国の土地に高麗王若光と同様に戦乱の続く朝鮮半島からの逃れてきた多くの高句麗の遺民たち(1799人)が帰化人として移住したという。高麗王若光は、高麗郡大領として多くの高句麗からの帰化人たちを束ねる役割を朝廷から仰せ付けられていたようだ。また、この高句麗からの帰化人たちが、まだまだ文明的にも文化的にも立ち遅れていた、国の中心地である奈良の藤原京から遠く離れた東国の武蔵国の人々に、製鉄や灌漑・治水・農業など様々な大陸の進んだ技術を広める役割を果たしたのであろうことは想像に難くない。
この帰化人たちが移住した高麗郡と現在の川越を中心としていた入間郡は、入間川を挟んで東と西に江戸時代末まで約1000年以上に渡って隣接している関係性にあったのである。ここまで近ければ、このふたつの群の間に何の交流や接点がなかったということは考えづらい。それならば、入間川のこちら側においても古くからの土着の信仰の場の入口に人と神の世界の境界を示す将軍標が道祖神のように並べて立てられていたとしても何の不思議もないのではなかろうか。おそらく最も近く帰化人たちのもたらした知識や技術に日常的に触れていたのは、入間川や新河岸川の流域で稲作を営む農民たちであったであろうから。よって、彼らが帰化人たちの信仰や儀式・儀礼までをも模倣することは、ほぼ当然の成り行きであったはずである。耕作の方法だけでなく神や自然への祈りまでをも含めて農耕の技法や技術として、彼らには伝えられていたと思われるので。
妙義神社の境内にある照善院(以前)の時代から伝わる遺物(石仏群)の中でも最も古い時代のものが、江戸時代初期の寛文11年(1671年)3月に建てられた庚申塔である。これを納めたのは、武州入間郡山田庄河越里五個村の人々であり、代表して矢野角左ヱ門、宮川長兵ヱ、大河内伊兵ヱ、大室市右門、竹内喜兵ヱ、塩野甚左ヱ門の名が刻まれている。おそらくは、山田庄で稲作を行なっていた農民たちが建てたものなのであろう。そして、この山田庄というのは、現在も町名として市の北部に山田の名が残ってはいるが、かつては入間川の流れに沿ってかなり東西に広い地域のことをいったようである。市の東北部に位置する下老袋あたりでも山田姓にまつわるものを寺社において頻繁に目にするのもそのためなのであろう。そして、入間川を挟んで高麗郡と直に接していたのも、この山田庄であった。
山田という地名や姓名(山田造)は、調べてみるとこちらもまた朝鮮半島からの帰化人と縁の深いものであることが分かってくる。だがしかし、山田庄に関係していたのは高句麗から渡ってきた帰化人ではなく、どうやら新羅からの亡命者からなる帰化人であったようだ。持統天皇4年(690年)に持統天皇が韓奈末許満をはじめとする12人の新羅からの帰化人を武蔵国に移住させたという記録が残っている。当時、巨大な高句麗との間で戦闘が繰り返されていた新羅からは、激しい戦乱を逃れて多くの亡命者が海を渡ってきていたようである。彼らは最初は朝廷の近くの和泉国などで手厚く保護されていたようだが、そのうちに大陸の進んだ知識や技術を広めるために計画的な移住という形で東国へと派遣されるようになる。霊亀2年(716年)に高麗王若光や高句麗から帰化人が高麗郡に移り住んでくるよりも前に、山田姓を名乗っていた新羅からの帰化人が武蔵国の入間川流域(後に山田庄となるあたり)にやって来ていて、農耕に関する最先端の知識や技術を伝えていたとしても何ら不思議ではないのである。だとすると、古くからあの土地で稲作を営んできた武州入間郡山田庄河越里五個村の人々が、おそらくは照善院以前の時代から(後の庚申信仰にも通ずる)土着の神に対する篤い信仰心を抱いていたであろうことも、容易に推察できる。
高句麗や新羅からの帰化人と深い関わりのあった山田庄の人々も信仰していたはずのあの夢に見た神社に将軍標らしきものがあったのも、そう考えると納得できるものがある。いまだ未開の地の状態から脱してようやく文明の光に触れたばかりの東国の稲作地帯で、日本古来の伝統的な神への礼拝や祈祷というものがしっかりとした形式にまで固められていなかった時期に、農耕民にとって非常に重要な意味をもつ大事な土地の守り神を祀る場所の入口に、後の鳥居の原型となるような二本の柱(標、ジャンスン)を立てることは、もしかするとごく普通のことだったのではなかろうか。
(注)寛文11年(1671年)の庚申塔について。この庚申塔が、その当時にすでにそこにあった照善院に建てられたものであるのか、照善院の前身となるような何らかの寺社に建てられたものであるのかは、定かではない。しかし、その太田道灌の屋敷の北側の新河岸川の対岸の土地に、戦国時代から江戸時代初期にかけての時期にすでに何らかの祭祀を行う場が存在していたことだけは間違いなさそうだ。後の照善院へとつながってゆくような寺院(もしくは照善院)によって近隣の人々を集めて庚申請などが執り行われていたのだと思われる。

そんな夢に登場した神社が、なぜ跡形もなく失われてしまったのか(夢に登場しただけなので、実在したかも定かではない。だから、実のところは「なぜ」もへったくれもないのであるけれど)。そう考えてゆくと、やはり太田道灌という人物に、もう少し目を向けておかないといけないような気もしてくる。現在の妙義神社とかつての照善院と大日堂・妙義社、そしてあの夢に登場した神社の謎に大きく関わっている人物として、どうしても道灌の影が浮かび上がってきてしまうのである。すでに7世紀の後半から8世紀の初頭にかけての時期には朝鮮半島からの帰化人たちの力添えもあり稲作地帯として豊かな暮らしが営まれていたであろうこの土地に、室町時代の終わりの戦国の乱世の勃興期に上杉家の武将として土地の外からやって来た道灌には、どうしてもちょっとした疑惑の目を向けたくなってきてしまうものがある。
つまり、元々そこにあった土地の人々にとって古くからの信仰の場となっていた社(夢に登場した不思議な神社がそれにあたるだろうか)は、信心深い太田道灌によってそこから移設されてしまったのではないかとも思えるのである。長禄元年(1457年)に道灌は川越城(河越城)を築城し、その城の北西に自らの屋敷を構えた。神社の移設は、この築城と屋敷の建設の際に並行して行なわれていたのではなかろうか。では、どこからどこへ。新河岸川の北側の後に宮元町となるあたりの(山田庄の広大な田園風景を見渡せる)場所から、新河岸川の南側の後に志多町となるあたりの道灌の屋敷のすぐ隣りへ。何のために。戦勝祈願が大好きな道灌が、少しでも多くの近隣の土着の神々の力をかりてまでも武将としての大願を成就させたいと欲したがために。
太田道灌の屋敷跡にあったとされる照善院の敷地の一画には、そこに太田道灌の屋敷があった時代から伝わる大日堂と妙義社という社があったという記録が残っている。しかし、江戸時代後期の寛政6年(1794年)に制作された古地図には、そのあたりには照善院と妙義社の場所を示すものは何もなく、ただ大日堂の位置のみが書き込まれているのである。これは、かなり古い段階から大日堂と妙義社は統合されてひとつになってしまっていたからではなかろうか(そして、照善院は郷分の管理者としてのみその一帯に関わる形であったのだろう/もしくは、大日堂こそが照善院の本堂であったということだろうか)。この複数の神々や仏の社の統合を(半ば強制的に)行なったのが、15世紀の半ば頃に、この地にやって来た太田道灌であったのではないかと思われるのである。
文明3年(1471年)、東京駒込の妙義神社で戦勝祈願を行なったという記録が残っている太田道灌。古代日本の伝説的英雄である東征を行なった日本武尊を祀るこの神社を、東国で武勇を誇った室町時代後期の武将である道灌は、非常に強く信奉していたのではなかろうか。この日本武尊を祀る妙義神社で戦勝祈願を行い、次々に華々しい戦果をあげていったことで、ますます道灌の中で妙義神社への信仰は篤いものとなっていったのであろう。
その信仰が篤ければ篤いほどに日常的に参拝できる場所を求めたくもなってくるはずである。そこで道灌は川越城の近くに屋敷を設ける際に、そのすぐ隣りに妙義神社の分社となる妙義社を建立したのではなかろうか。群馬県甘楽郡の妙義山の麓にある妙義神社の分社であるのか、東京駒込の妙義神社の分社であるのかは分からない。だが、屋敷のすぐ近くに信奉する日本武尊を祀る社がどうしても必要だと、戦国の乱世に足を踏み入れつつあったひとりの武将として感じていたのかもしれない。
だが、それだけでは少し物足りないと感じてしまう部分もあったのではなかろうか。屋敷の隣りの社に日常的に参拝を行なっていた道灌が、その強い戦勝祈願の念をしっかりと受け止めてくれるだけのもっと強い神仏の力が必要だと日ごとに感じるようになってきたとしてもおかしくはない。当時、関東管領山内上杉家との軋轢などもあり道灌の仕える扇谷上杉家の行く末も深い混迷のただ中にあった。15世紀後半、関東の各地では血で血を洗う戦乱に明け暮れる実に血腥い日々が繰り返されていたのである。同族の上杉家の内部で敵と味方が入り乱れ、各地で戦火の炎が上がり、もはや自らの武運以外は何も信じられなくなっていたはずだ。知略に長けた武将であった太田道灌も(その武将としての活躍の目覚ましさゆえに)背信を疑われて、最終的には文明18年(1486年)に主君の上杉定正によって暗殺されてしまう。文明8年(1476年)、主君の山内上杉家に対し反旗を翻し下克上の乱を起こした長尾景春の軍勢は、太田道灌の目覚ましい活躍によって鎮圧されたが、その十年後には今度は扇谷上杉家の有力な家臣であった道灌が主君に対する下克上の企てを疑われて命を奪われてしまったのである。
そんな何かと物騒な時代に、神頼みは相当に大きな意義や意味をもっていたはずである。神社での戦勝祈願という行為は、その時々に自らの置かれている状況を冷静に判断し分析するよい機会にもなっていたのであろう。そして、太田道灌は戦乱の時代にあってもっともっとどこまでも勝ち続けてゆくために、自らの傍らに何ものにも屈しないほどの強い神を欲したのではなかろうか(そうした過剰なほどに力を欲する姿勢こそが、主君上杉定正に疑念を抱かれる要因になってしまったのかもしれないが)。そのために近郷の村々にある農耕の神や水害から土地を守る神などの神社や社や祠をひとつに統合し、一ヶ所にまとめて祀るということを行なったのかもしれない。そのときに統合された社のひとつが、あのあたりの土地の土着の信仰の対象となっていた大日堂であったのではなかろうか。
大日堂とは、その名の通り大日=太陽の神を奉る場であったものと思われる。それは、古くからの神話の神である大日霎命(天照大御神)を祀る社であり、仏教の世界の大日如来への信仰に接続してそれを拝む場でもあったのではなかろうか。近在の農民たちは、稲作の成功と豊作を祈って、太陽の化身である神と思われるものあれば宗教や宗派に関係なく、とにかく有り難く日々拝み続けていたのであろう(神社に入口のところに将軍標/ジャンスンが混ざり込んでいたのも、そのためなのではなかろうか)。今の宮元町のあたりにあったと思われる大日堂も、そうした神仏習合のお堂として天照大御神や大日如来を合わせて祀っていた社であったのではないだろうか。そして、その大日堂のスケールの大きい豊かな力に目をつけたのが、とにかく戦に勝つために縋れる神があれば、それをひとまとめにしていくらでも日々拝み続けていたいと考えている太田道灌であったのである。
昭和39年(1964年)7月、宮元町に移設された妙義神社の社殿の脇に「凱旋奉賽」と大きく書き込まれた一本の短剣が取りつけられた額が掲げられた。これは、かつてそこにあった大日堂が、時代の流れの紆余曲折の果てに妙義神社となってその地に凱旋したことを意味するものでもあったのではなかろうか。つまり、15世紀の半ばに太田道灌の屋敷の隣りに大日堂が移設されることになってから、約500年の年月を経てその土地の人々にとっての大切な信仰の対象であった神仏が社とともに凱旋を果たしたことになる。それを記念して、あの立派な額は社殿に奉納されたのだとしか思えない。
新河岸川や入間川の流域で稲作が盛んになった8世紀頃から土地の人々の信仰の対象となっていたと思われる、非常に古くからあった太陽の神を祀る大日堂を、いつかあの元々の場所に取り戻したいという思いが、昭和40年代頃まで宮元町の旧家には伝わってきていたのだと考えると、何やらそこにとても熱いものを感じざるを得ない。ただ、近郷の人々からそうした強い信仰を集めている大きな力をもつ神だからこそ、太田道灌は屋敷の隣りに所望したのではあるまいか。そして、その篤い信仰心は、道灌によって社が新河岸川の川の向こうの志多町に移されてしまってからも決して変わることはなかったのである(寛政6年(1794年)の古地図に、そこに大日堂とだけしか記されていないのは、そのためなのではなかろうか)。もしかすると、密かに人々は新河岸川の橋を渡って日々お参りにいって詣でるたびに大日堂の川向こうへの凱旋を祈り続けていたのかもしれない。そんな約500年越しの悲願達成の喜びが、あの額には込められているように思えてならないのである。
では、なぜ大日堂としてではなく妙義神社になって帰ってくることになったのであろうか。それは、やはり明治10年(1877年)に火事で焼けてしまった大日堂を、明治新政府の神仏分離令に基づく廃仏毀釈の方針に沿って、明治37年(1904年)に妙義神社として再興させていたからなのであろう。このときはまだ明治政府が目を光らせていたため、神仏習合の社となる大日堂として再建することは、ちょっと問題があったのではなかろうか。もしかすると、明治初期のまだ時代が大きく動いていた時期に志多町にあった大日堂が火事で燃えてしまったのも、川越の街にも古くから伝わる習俗や習わしを断ち切って近代化を急ごうとする廃仏毀釈の急進的な動きが強くあったからなのかもしれない。明治天皇に通じる日本古来の神である天照大御神や日本武尊と大陸から渡来してきた仏教の大日如来が混淆している神仏習合の社が、とてもいかがわしいものとして真っ先に攻撃の対象になってしまったとしてもおかしくはない。そして、急進的な廃仏毀釈の動きもようやくおさまってきたであろう火事から27年後の明治37年に大日堂は太田道灌が戦勝を祈願するために拝み続けた妙義神社として再建され、その60年後の昭和39年に宮元町に遂に凱旋を果たすことになるのである。

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