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言葉を選ぶ狭間に

noteを書くようになって、言葉を慎重に吟味している。
言葉の意味を
知っているようで知らない自分にも気づかされる。

そんな中で、嫌いな言葉がある。

わたしは、いわゆる「便利な言葉」が嫌いだ。

それに言い換えておけば良さそうな言葉、
なんとかまとまったように聞こえる言葉、
そういう言葉が
どうやら嫌いなようだ。

理由は、そこに探求がないからだと、自分なりには結論を出している。


そしてそういう言葉は「流行っている」言葉でもある。

流行語大賞なんてどうでもいいわたしにとっては、
そういう言葉をもともと受け入れる容量がないのだろう。

だけどあらゆる場面で多用されるその言葉を聞くたびに、
つくづく、どこになにがあるのかわからない言葉だなあと思う。


きのう、NHKプラスでETV特集の「森崎和江 終わりのない旅」を観た。

自分で自分のこころを表現することにすら雑多な言葉をつかえないように、
自分でないもの、他者やその空間を、
どうして雑多な言葉で言い表せようか。

そこにいのちへの尊厳が宿るとき、
言葉にもいのちが宿るのだと、
だから小説や文章は胸を打つのだと、わたしはどこかで信じている。

議会は「言論の府」と言われる。
政治家を目指す以上、言葉や言論の上で仕事をするのが条件だと思う。
だけれど、
言葉では言い尽くせない、表現できないものが、この世には確かにある。
それも内に重ねて、言葉にしていく努力をするのもまた、
政治なのだろうと思っている。


わたしは目に見えないものが好きだ。

においとか風とか旋律とかそのリズムとか、
とてつもなくいとおしくなり涙があふれることがある。

わたしはとても感傷的な人間だと思う。

よくよく考えて、ほんとうに政治家なんて向いていないんだろう、と呆れる。

それでもそこに確かにある、
目に見えるもの・目に見えないものを拾い集めながら、
政策みたいなことを考えていきたい。

一人の市民として、生活しながらできる政治活動は十分やってきたと思ってる。

言葉だけですべては表せないと思っていながらも
先日閉会した自分たちの町の市議会の
その言論のやり取りのまやかしに、奥行きの無さに、
あきらめを感じるのはわたしだけではきっとないはず。

でもあきらめないでください。

一人一人があきらめない先に、やっと、言論のテーブルができる。

そんな、
時間がないくせに果てしない旅だけれど、
リニアモーターカーなんかより汽車のほうが好きだから。


わたしと一緒に汽車に乗って

行きませんか、その先へ。


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