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見えなかったことが見えてきた

生きることがとても辛かった時は
人生を変えたいと思っていた。
自分に自信が無かった時には
自分を変えたいと思っていた。


そのままじゃいけない。
こんなわたしだから愛されないんだ
と思っていた。


でも違うのだった。


変えるべきなのはわたしじゃなくて
「ここがダメだ」
「こんなんじゃダメだ」
という意識だった。
どうせわたしなんて嫌われている
だろう
わたしは迷惑な存在なんだという
思い込みだった。


そして忘れずに握りしめていた
お母さんお父さんや先生等の
大事な人たちが自分の気持ちを
理解してくれなかった時に感じた
虚しくて悲しい気持ちの記憶。


大切な人たちの取った態度から
自分には大切にされる価値がない
と受け取ってしまっていたのだ。
その記憶は原動力になって成長を
促してくれたのではあるけれど
自分がダメだから変わらなくては
いけないのでは全くなかった。

もちろん人と関わる時の思いやりや
マナーを知ることは大切だった。
意見が食い違った時に話し合うこと
や断ることや違う意見をきくこと等
のスキルは必要だ。

親がモラハラ気味だったり一方的な
コミニュケーションをとる家庭だと
対人のスキルを学べていない。
身近な人にちゃんと「ありがとう」
「好き」を伝えることや人の「No」
を受け入れること。
Noはわたしが嫌いだから言われる
のではなく好かれていても言われる
という理解が必要だった。


心に傷がある時はNoという言葉に
傷ついてしまい受容ができなかった。
自分には価値がないという勘違いが
直ってくると他人のNoは
自分とは無関係だと理解ができた。
自分が変わると受け取り方が変わる。
対人スキルは後からでも学べる。


聞こえたもの見えたものが全てでは
なかった。
今のわたしにはモスキート音は
聴こえない。(泣)

大人になると対人で省エネをする。
どうでもいい人なら上っ面だけを
褒めてその場を適当にやり過ごす。
説明や対話のためのエネルギーを
無駄に使わない。
一方で大切な人には咎めることも
嫌なことも時には言う。
もっとこうして欲しいとか
こちらの正直な気持ちを伝える。
関係性をより良くするために
意識を向け時間やエネルギーを使う。


大人になって見えてきたものがある。
ただ優しく言うことを聞くことが愛
ではないこと。
長く深く関わるためには「No」を
伝えなくてはいけないこともある。
いつも相手の言うことを聞いて
願いを叶えてあげているととても
喜ばれて必要とされる。
けれどそれは依存的な関係になり
それが続くと結局は精神的に疲れて
自ら関係性を潰してしまうことに
なるのだ。

ほどほどの距離感や遠慮、その人の
スペースやペースを尊重するために
時間や物理的な距離も大切に思う。
子どもと母親のようにべったりと
くっついて何でも話して共感されて
理解されようとしてしまうと
意志をもった大人同士では摩擦が
起きてしまうのだ。

自立して1人で居られること。
心はオープンでありながらも
自分で決定することや
自分で感情を解決することを
各種の犠牲を経て(笑)
ようやくできるようになれたと
思うこの頃だ。


ぶつかったり嫌ったり嫌われたり
人との間で教えてもらったのだ。
その時はたしかに傷ついたけれど
それも有り難いことだ。
導いていただいたのだ。
見える存在、見えない存在全てに
今となっては感謝しかない。


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