連載小説【フリーランス】#26:何を言ってるのかよくわからない

 黄金連休の初日、正和はいつものフィットで迎えに来た。一泊だからとたかをくくっていた幸代の荷物は思ったよりも膨らみ、一回り大きなボストンバッグが急遽クローゼットの奥から召喚された。正和はちらりと見て「やっぱり女性は荷物が多いね」とだけ言った。だから何だというのだろう。幸代がトランクを開けると先客として収まっていた正和の荷物はデイユースサイズのバックパック一つ。それに比べたら確かに多いけれども。

 サービスエリアで幸代が手洗いから出てくると、正和は自販機スペースの横に設けられたゲームコーナーにいて、大きなガラスケースと向き合っている。正和はUFOキャッチャーが得意だ。何かしら取るたびに戦利品を幸代にくれたので、幸代の家には五年分の流行りもののキャラクターをモチーフにしたぬいぐるみがそこそこたまっている。ただ、正和はあくまでも取ることに興味があって、取ったものには特に愛着もないようだった。つき合いたてのうちは幸代も一緒に挑戦していたが、一向に取れる気配がないので、やがて見ているだけになった。そもそもやりたかったわけでもない。一度もキャッチに成功したことのない幸代に正和はよく言った。

「取りたいものじゃなくて、取れるものをねらうんだよ」

 取りたいものと取れるものは違う。ガラスケースの中で隣同士に折り重なっていても、両者は絶対に交わることがない。そして正和は自分が取る前に幸代が欲しいものを聞いたりしない。だから幸代の部屋は欲しくもなかったもので満たされつつある。そしてまさに今、幸代の目の前で、そのコレクションが一つ増えた。

 幸代たちは再び路上に出た。後部座席にはさっき正和がUFOキャッチャーで取った黄色いぬいぐるみが座っている。

 二人で車に乗るときの音のお供にはいつもラジオをつける。つき合い始めた頃は、お互いに普段の自分が聴かないジャンルの音楽に触れることを楽しんでいた時期もあったけれど、幸代と正和の趣味は必ずしも合っているとは言えなかったし、自分の好きな曲は会っていないときに好きなだけ聴けばいい。わざわざ個々のスマホにイヤホンをつないでまで聴かなければ耐えられないような時間と距離を乗ることもなかったし、一番妥当な解決策として、ラジオに落ち着いたのだった。

 任意の局は女性パーソナリティの番組を流していた。この時間はデジャヴュだった。たまにしか乗らない車の時間は、降りてからの時間の流れからは切り離されて、次にまた乗る時間に直結しているような気がする。その時間軸の中では一ヶ月半前のプロポーズもまだ一昨日ぐらいの鮮度だった。新鮮とまではいかないが、まだ生きた匂いや息づかいをまとって、あの時間が立ち上がってくる。あまりにも自然なタイミングで行われたプロポーズ。自然すぎて戸惑う余裕もなかった。自然であるということは疑いから目を逸らさせる。それはとてもとても罪深いオーガニック志向だ。プロポーズという手間のかかる、人工的な意図と作為をたっぷり注ぎ込むべき、ある意味厄介で面倒なイベントを、そこにいたるまでの細やかな心の準備や時間と労力をともなう段取り、言葉のやり取りは、都合よく省かれたのだ。ラジオの女性パーソナリティがちょうど代わりに言ってくれたのをいいことに。あのときそれに一言もつっこまず、すべてをわかったような顔をして、そのまま受け入れた自分にも今思えば腹が立つ。それがスマートだとでも思っていたかのように。正和としてはうまくやったつもりでいるのかもしれない。でもこういうのは上手くやらないことのほうが重要なのではないか。

「そういえばボランティアのことだけど」

 正和の声がぐるぐる回る思考の流れに水を差した。幸代が咄嗟に頭を切り替えられないで黙っていると、ハンドルを握った指の先が返事をうながすように動く。

「前に言ってた、結婚したらどうするかっていうやつ」
「え?」
「あれって何の話だった?」
「ああ。うん」

 二人で車に乗っているというシチュエイションから正和があの話を思い出したのだろうと推し量ることは難しくなかった。幸代とは車中の時間軸が一日ずれていたけれど。

「あのね、夫婦になったら二人の時間ももう少し必要なんじゃないかなと思って」
「ふーん」

 いくつかの青信号を通り過ぎ、同じぐらいの黄信号をすり抜けて、赤信号につかまった。

「一緒にいる時間を増やしたいなら、さっちゃんがアートクラスの担当コマ数を減らしてもらったら?」

 正和は両手をハンドルに乗せて前方を向いたまま言った。

「俺はいつアシスタントをやめてもいいわけだし。そうすればさっちゃんのコマが浮いた分だけ二人の時間を作れるでしょ」
「ちょっと待って、どうしてそうなるの? マサ君がダンスのワークショップを減らすっていう選択肢はないの?」
「ダンスは俺が自分で始めたことだし責任があるからさ。途中で放り出すわけにはいかないよ」
「だったら私だって私のクラスに責任があるよ。私はプロだし、仕事の一部だし」
「俺のダンスはアマチュアだから遊びだって言いたいの?」
「そんなこと言ってない。それなら私のアシスタントをするのだって、責任の重さは同じじゃないの?」
「そんなに突っかからないでよ。俺、何か気に触るようなこと言った?」

 そんなところから始めなくてはならないのか。悪気がなければ何でも許されるというものじゃない。これは思った以上に骨の折れる仕事になりそうだ。でも走っている車の中には二人しかいないし、どこにも逃げられない。熱海まではまだ随分かかる。この先の旅程を思うと気が重くなったが、腹をくくるなら今しかないかもしれない。幸代は覚悟を決めた。

「私が途中で責任を放り出すような人間でも結婚できる?」
「ライフステージに合わせて生き方を変えるのは責任放棄とは言えないよ」
「なのにマサ君はそうしないんだ。どうして自分がしたくないことを私に提案するの?」
「だから俺には責任が」
「マサ君の責任のために私の責任は放り出してもいいの?」

 答える代わりに正和は幸代を見ると、憐れむように微笑んだ。やれやれ、困ったお嬢さんだな。そんな作りものめいたセリフがぴったりの表情だった。むきになってくれたほうがまだましだった。仏のような微笑みは余計に幸代を苛つかせた。

「マサ君が信念を貫いて正義のヒーローでいるために、私は自分を犠牲にして汚れ役を引き受けなきゃいけないわけ?」
「何を言ってるのかよくわからないんだけど」
「マサ君はよくそう言うよね」
「どういう意味? 何のこと?」
「何を言っているのかよくわからない。それってずるいよ。そう言われると、言われたほうに非があることになっちゃうんだよ。どうして一方的にシャッターを降ろしちゃうの?」
「よくわからないけど、落ち着いてよ。こんなことで言い合いしたくないし」
「わからないならちょっとはわかろうとして。それにこんなことじゃない」

 少し感情的になってしまった。たとえ少しでも、自分だけが感情的で、相手がそうでないと、自分が喜怒哀楽をコントロールできない駄目な人間みたいな気がしてくる。その瞬間に優劣のようなものが生まれてしまっている。でもどうしてそんなふうに思わなければならないのだろう。自分の感情を露わにするのはそんなによくないことなのだろうか。

「とりあえず着いたら飯にしよう」

「アハハハハ!」

 幸代は突然高らかに笑い出した。アハハ、アハハハ、アハハハハ。そうする以外にできることは何もなかった。ただ黙りたくなかった。自分の体内から出た声が知らない獣の雄叫びみたいに響いた。一度声に出してしまうともう後戻りはできなかった。どうしても笑いが止まらなくなった。アハハハ、アハハハハ、アハハハ。幸代は息継ぎの間も惜しんで吐く息に声をのせ、ひたすら笑い続けた。これには運転席の正和もさすがに気味の悪そうな色を隠せないでいたが、その顔をやや強張らせながらも、黙々と車を進めた。そうしてもう草も生えないほど笑ってしまうと、幸代はおもむろに顔を窓の外に向け、一転黙り込んだ。

 正和はいつも安定している。この五年間、喧嘩らしい喧嘩はしたことがないし、ちょっとした言い争い的なことさえ記憶にない。感情が乱れてもあからさまに幸代にぶつけることはなくて、その代わり、幸代にもそれを許さないようなところがあった。幸代は幸代で、むやみに踏み込まれると引いてしまうところがあるので、お互いにとって都合のいい距離感だったのかもしれない。それがどうして今になってバグを起こし始めたのかというと、ツケが回ってきたとしか言いようがない。

 正和の安定が幸代を救ったこともある。風船男と別れたとき、幸代はそれまで信じて積み上げてきたものが、足元から覆されて崩れ落ちる思いだった。昨日まで疑うことなく真っ直ぐにすくすくと育ち、明日からもそのまま成長していくはずだった価値観が、根っこから引き抜かれてゼロになったとき。それは敗戦が一夜にしてシロをクロに変えたように、人ひとりを壊すには十分なクライシスだったし、実際あの頃の幸代は人として極めて危機的な状態だったのだ。この先これほどのダメージをくらうぐらいに自分以外の誰かを強く求めるなんてできるのだろうかと思った。それができないことも怖かったし、できたとしてまた失うことも恐ろしかった。

 そこから生還するためには、幸代にも自分以外に自分を支えるものが必要だったのかもしれない。秩序を失った幸代の世界にそれをもたらしたのが正和だった。それは突然インターフォンを鳴らしてやって来る。何気ない言葉で心の隙間に入ってくる。あの日、迎え入れたのは幸代自身だ。⏩#27


⏪#25:部屋の人質
⏪#24:名前をつけるな

⏪#23:口に出されなかった言葉たち
⏪#22:似ている誰か
⏪#21:同じカテゴリの男
⏪#20:食べた気がしない

#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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