「書くことがない」ということ。
いつのまにか書かなくなっていた。
いざこうしてnoteを開き、下書きへと消えた原稿は数知れず。
とはいえ書かなきゃいけないような気がして、こうして深夜の公園でスマホと対峙しているわけだが、本当に書くことが浮かばない。
なので最終案として「書くことがない」ということをネタに書いてみるわけだが、早くも次の自分が恨んでいるのがわかる。
すまない。今は書きたいが、書くことがないのだ。
書くことないなぁと思い、自分の過去記事掘り返してみたが、なかなかどうも怒ってばっかりだ。
我ながらその怒りの表現に面白さを感じたわけだが、なんというか、若いなぁと思った。
人が文章を書く時はどんな時だろう。
誰かに何かを伝えるという意味での作文と
こうして自分の考えてることの輪郭をなぞっていく作文は絶妙に違う気がする。
少なくともここの文章は身内には読まれたくない。
昔は輪郭をなぞるのが簡単だった気がする。
何か物事を見て、何かを感じて(自分はこれが怒り)、その正体を文にすることで感情の形を探る。
そして出来た文章を読み、自分の気持ちが案外わかりやすい形だったことに驚き、面白がる。
歪な形をしてると思った感情の形は、実はシンプルな○だったり⬜︎だったり。
文を書くことは自分から生まれる色んな形の感情を集めてコレクションにしていた感覚だ。
あとから見返すと、俺はこんなことで怒るんだな、こんなことで悲しむんだな、って色んな自分の宝石に出会えて面白いのだ。
でも今は書くことがない。
こうして「書くことがない」を書いていると不思議と思い当たることが出てくる。
大体の自分の感情の形がわかって、もう宝探しはいいかなという気分になった説
まぁ年もとった。それと比例して色んな感情とも出会い、今も出会うわけだが「初めまして」な感情がなくなってきた気がする。
もちろんまだ知らない感情もあるだろうが、なんというか、今のままでいいというか。
今思うと、書いていた時期は感情に出会うことが楽しかったような気がする。
詐欺に遭ったとき、裏切られたとき、絶望したとき。
全部辛かったが、辛いにも色んな種類があることを知れて良かった。
もちろんダメージは負ったさ。でも回復が異常に早かったのか、そもそも痛みすら気づかなかったのかも知れない。
しかし、それが今はない。
幸せも不幸もある程度知ったから、もう少し普通に生きたい。
そう思い始めた気がする。
つまり、平凡になったのだ。
世界が憎くてたまらなかった僕はいつのまにか、世界で生きていた。
当たり前のことを当たり前に、素直に感じられるようになってきたのだ。
秋が訪れ、少し涼しい。舞茸の天ぷらでも作ってみようか。いいや焼き芋もありだな。
こんなことを考えるようになっていたのだ。
それはある意味、文章でなぞるのは難しいのかも知れない。
わかりやすい怒りや悲しみは、なぞりやすい。
それはとっても簡単な形だから。
でもこの、なんともいえない安心感と不安感の狭間で季節を感じて、家事をして、仕事をして、ちょっぴり人が恋しくなって、でも一人でいいかなとも思って。
この感情はなんだろう。
どんな形だ。
今までみたいにわかりやすくない。事実、文章をここからどう紡げばいいかもわからない。
でもなんか、楽しい。
ひょっとして、これが文章を書くってことなのかな。
ポンと浮いた考えを言葉にするんじゃなくて、その時々の自分をなぞるーーみたいな。
考えてみれば、今まで書いてきたのは感情ではなく、怒っている自分や悲しんでいる自分だった。
ネタなんかなくていい。俺がいるなら、それを書けばいい。いや描けばいい。
そして、そっと、俺がここにいるんだなってことを感じれればそれでいいと思うんだ。
大人になっていくと、良くも悪くも感情は鈍感になる。悲しくても悲しくなれなくなるし、怒りたくても怒れなくなる。
それは単純に体力も気力も無くなるし、怒っても泣いても解決しないって本能が知ってるから。
だから、あんまり感情を感じなくなる。
そうして、自分が生きてるかどうかも分からなくなったりする
そんな自分を肯定するのは、副業だの旅だの資格だのではない。
今、ここにいる自分を知ることだ。
悲しんでるんだな、怒ってるんだな、辛いんだな、嬉しいんだな、を知る。
時に鏡を見つめ、時に影を見つめたりしてね。
そしてゆっくりその形をなぞっていく。
拙い線でいい。うまく描けなくていい。ゆっくりゆっくり、自分の形を文章でなぞる。
そして、ぐるっとなぞれた時、僕は僕の形を知る。
そこからは副業だの旅だの資格だの、好きにやればいい。
大人になって、鈍化していく中で、僕は僕でいるために、文を描くことにするよ。
さて、次の僕はどんな僕だろうか。
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