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YouTubeに自分の嗚咽を投稿して思ったこと。

突然だが、僕は今日全世界に自分の嗚咽を公開した。

この一文はあなたにとってこの世で一番どうでもいい文章なのかもしれない。しかし僕にとってはこれほど明確な成長を感じたのは久々だ。

これだけでも休学した価値があると言っても過言ではない。

それほどまでに、自分の中でなにかが剥けた気がしたのだ。
まぁ3分ちょうどの動画だ。気長に見てくれ。

昨晩、僕は嗚咽を公開し、歌声を轟かせた。そして少し、変顔やドッキリ、大食いに爆買いに勤しむYouTuberの気持ちが少しわかった気がした。

これは動画投稿をして思ったことだが、編集とか企画とかは割とどうでもいい(言い過ぎな気もするが)、大事なことは自分が感じたことをいかに素直に表現できるかだと思う。

ここ表現というと、絵を描いたり、音楽を作ったりと、いわゆる楽しそうなアウトプットを想定する人がほとんどだと思うが、断じてそうではない。

失恋して辛かったら、辛いと話す。

楽しいと感じたら、それを楽しいと話す。

嫌なら嫌だと伝える。

臭かったら嗚咽をするし、怒りたいなら怒る、滑ると思ったネタも言う、やりたい企画はやる。これを表現と言う。

上手な投稿者はこの辺がうますぎる。もちろん演技な人もいるだろうけどそうだとしても単純に”素直でいること”がうますぎるのだ。

今の時代、自分を出すなんぞ言語道断。

偽ること。理解してもらえない、と諦めること。なるべく穏便にいること。これは不安定すぎる社会を生きる上での暗黙の了解。

あげく恋愛もしない。友達も作らない。
自分を出して嫌われるくらいなら、一人でいいという思想。

とってもわかる。今の時代は便利すぎるのだ。わざわざ自分を出してまで人と付き合う理由がわからない。それをするメリットがない。

少し前では、集団の中で認められようと、誰かは芸を磨き、誰かは狩の腕をあげ、誰かは料理に励む。自分の持ち合わせてる等身大の自分でチームに貢献し、チームに認められようと頑張っていた。

しかしどうだ。便利すぎる今、自室でスマホで何でもできる時代に、チームとやらに認められなきゃいけないも、わざわざ等身大でいることも、意味がなく感じるだろう。うむ反論の余地もない。

そう考えると、みんなが押し殺した自分のしたいこと、感情、生き方、それらを代弁する職業がYouTuberなのではないかなと嗚咽した僕は考えたのだ。

「好きなことで生きる」

の言葉は、我慢することが常な”人間”から足を洗って、矛盾だらけで理不尽極まりない、貪欲で酷い”ヒト”という生き物を謳歌すること。

そんな気がするのだ。

君も嗚咽をしてみよう。

僕は嗚咽して少し素直になれた。

社会に圧縮された自分が、嗚咽することで少し楽になった。

これが僕にどんな作用をもたらすかはわからないが、まぁ気分がいいのでよしとしよう。

こうやって対して金にもならない文章を描いたり動画を作ったりしていくとどんどん人間ではなくなっていく感覚になる。

いんだそれで。

それでいいんだ。

僕はもっと恥ずかしいを発信したい。自分なりに自分をのびのびさせてあげたい。

ところで君、最近退屈そうだね。

嗚咽でもしてみない?







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