アダム・ドライバーがタイプな話

 アダム・ドライバーがタイプである。

 アダム・ドライバーと言えば、近年スター・ウォーズの新シリーズで悪役を演じ、一気にスターダムを駆け上ったアメリカの俳優であるが、絶世の美男子ではない。
 見た目だけで言えば、トム・ヒドルストンやマッツ・ミケルセンの方が好きなのだけど、あれは恋人にしたいなどとは畏れ多くてとても思えもしない、見ていたい美しさである。好きな芸能人が必ずしも好きなタイプではないのと同じだ。

 その点、アダム・ドライバーはというと、万人がハンサムだと評する顔立ちではないのだが、何とはなく“いい”、のである。
 体格から顔のパーツのひとつひとつに至るまで、全てが大作りで、どんな役をやっていても、どこか、のっそり、もっさりしていて、トムヒと一センチしか身長が変わらないとは俄かに信じがたい、クマとかそういう大きな生き物と同じ空気がある。
 だからと言って、彼から全てを受け入れてくれるような包容力を感じるわけでもない。基本的に人を嫌っていそうな雰囲気が常にあり、間違っても正義感に満ち溢れる熱血漢の役柄なんかには選ばれなさそうだ。

 こう説明すると、アダム・ドライバーの何が良いのだと思われそうだが、そんな彼の魅力が最大限に発揮されていたのが、ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』である。
 最初から最後まで、本当にびっくりするくらい何も起こらない映画だ。映画鑑賞に慣れていない人だったら寝てしまうと思う。
 たぶん、日常の幸せを描いたハートフルストーリーに分類されると思うのだが、そうした系統の作品にありがちな、子どもの成長記録的側面が全くなく、観終わったところで“こんな人生を送りたい”とも特に感じないのだが、やっぱり言葉では説明しきれない良さがある。

 たとえ世紀末が訪れて、地球上が荒野に成り果てても、なんだかパターソンもアダム・ドライバーも生き残っていそうな気がする。それは彼が生命力に漲っているからでも、昨今のハリウッド俳優にありがちな筋肉隆々の体の持ち主だからでも、生きる術を見つけ出す英知がありそうだからでもなく、ただ彼ひとりでも生きていけそうだからだ。
 誰にも自らの存在の理由を求めず、揺らがされない強さ。あのどこかぼーっとした佇まいから感じられるそれが、わたしはたまらなく好きなのだと思う。

 ところで、このアダム・ドライバーという人は結婚していて、それは微笑ましいのだけれど、実は数年前に子どもが産まれていたらしいと知って、ひどくショックを受けた。わたしと同じ、子どもなんて要らない派の人間だと、身勝手な仲間意識を抱いていたのだ。
 もちろん、わたしは子ども達そのものを憎んではいないけど、親になった瞬間、人があたかも子どもを持つことが人生の意味全てだと言い始めるのが気にくわないのである。わたしの中のアダム・ドライバーは、ある日のインタビューの時のように、子どもがうるさいしバカバカしいからとハロウィンが大嫌いで、そのハロウィンの日に配偶者に買ってもらった犬の方が、子どもより余程好きそうなままなのだ。
 裏切られたというか、取り残されたように勝手に感じているが、一般的な価値観からすれば、彼は実に順調で真っ当な人生を歩んでおり、なぜか心の底からホッとしている。

 わたしのタイプは、アダム・ドライバーという概念だ。

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