見出し画像

精神原理論

精神とは、直接に関係した感覚の集合であり、
その変化(現象)でもある。
また、「直接に関係している」が、
どういう事かは後にわかる。

感覚とは欲求であり、逆も然り。
感覚は「快辛時間次元」と
「個別次元」を持つ。

快辛時間次元とは、
快と不快の2点からなる次元であり、
この次元は0と1からなる次元と相似でなく、
負の数と正の数からなる次元と相似である。

つまり、不快とは快がない事ではないし、
快とは不快がない事ではない。
快、不快の境界である0が存在する。

感覚には快辛時間次元の値、快辛があり、
快辛と快の上限との「離れ具合」で
その感覚は強い欲求となる。
また、その「離れ具合」が、
差なのか比なのか、
または、それ以外なのかは不明である。
つまり、離れれば離れる程といった比例なのか、
指数関数的なのかはわからない。
これには研究の余地がある。
(研究の余地とは標本を獲得した上での考察の余地)

逆に、快辛と0との離れ具合で、
その感覚は強い「逃避」となる。
逃避とは欲求の反対であり、
広義には欲求に含まれる。

精神とは肉体の感覚を元とした、
広義の欲求を満たすよう変化し、
精神の変化が肉体の動きとして出力され、
それによる外部の変化で、
更に肉体の感覚が精神へと入力される。
これが精神という持続的な現象である。
(肉体の動きとは無関係に入力される
肉体の感覚もある)

また、肉体への入力と出力の間に
精神という現象があるならば、
肉体への入力を遮断したり、
肉体への出力を遮断した場合、
どうなるのかという疑問が湧く。
前者は有限時間で精神が停止すると考えられるが、
後者は不明なので、実験の余地がある。

話を戻す。広義の欲求の強さとは、
精神の変化の優先順位である。

そして、不快の上限が高い感覚は
快感の上限が低く、
快感の上限が高い感覚は快の上限が低い。
(不快の上限が高いとは、
0に近いという事ではなく、
絶対値が大きい、0から離れているという事)

なので、欲求は叶えば快楽を生み、
逃避は叶えば無となる。

例示すると、
男性の性欲は強い「欲求」であるが、
その性欲が叶っていない状態は
強い不快(苦痛)ではなく、
叶った状態は強い快楽であるし、
痛みは強い「逃避」であり、
強い不快(苦痛)であるが、逃避が叶った時、
強い快楽は起きない。ただ、無となる。

また、欲求の強さと、
それで生じる快楽の強さはどういう、
数式で表されるかは不明で、研究の余地がある。

ただ、より強い欲求の方が、
より強い快楽を生むとだけはわかる。

そして、快辛時間次元という言葉の時間は
精神の変化(時間)を司る事から来ている。
精神の変化は快辛時間次元のみを
理由として起こり、精神は機械的に、決定論的に、
快を求め、不快を避ける、広義欲求を満たすのだ。
(精神の変化とは入力された感覚を
処理(変化)する事なので、
外部から感覚を受ける事は
精神の変化には当てはまらない)

また、精神の変化、つまり、行動が
決定論的である事に反証しようと、
目の前にあるアイスクリームを
あえて、食べないとして、
それは、食べない事によって
反証したいという欲求の方が強いから、
その行動が選択された、行動がその欲求で
決まったという事になるから、
欲求のみが精神の変化を
決めるという説は覆らない。

ただ、これを自由意思の否定とは解釈しない。
自由とはしたいようにする事であり、
自身の欲求に従う
(という決定論的な)事なのだから、
決定論と自由意思は両立する。

また、そもそも、自由意思の定義は不定
(定ま概念な為、
この概念を含んだ考えは無意味)である。

決定論的でない精神、自由意思とは、
理由のない変化をする精神という、
それはそれで自由ではないので、
矛盾した意味になるし、
自由とはしたいようにする事なのだから、
決定論的な精神が自由意志でないという説は、
したいようにする事が決定論的だから
したいようにできていないという
矛盾した結論に至ってしまう。

そして、したいようにする事が
自由意思であるので、
何をしたいかが何で決まっていようと、
誰かが操作していようと、
それは自由意思である。

誰かが貴方に、テーブルを
食べる欲求を植え付けて、
貴方がテーブルを食べようとしたとしても、
貴方は自由(意思)だ。

話を戻す。
精神における広義欲求の優先性は
快辛と意識量の積で決まる。
例えば、意識していない痛みは、
優先して取り除かれないし、
無意識な欲求である潜在欲求は、
強い欲求でない。

この、快辛と意識量の積を
実快辛時間次元と呼び、
その次元の値を実快辛と呼ぶ。
また、この実快辛時間次元での
欲求は実欲求と呼ぶ。

次に個別次元がある。
個別次元は感覚と感覚を分ける次元である。
感覚は複数個あり、精神は単一の感覚ではない。
実欲求は精神の変化であるが、
複数の実欲求でその変化が衝突する時、
実欲求が強い方の変化が叶う。
もしくは、より高い比率で強い方の実欲求が叶い、
低い比率で弱い方の実欲求も叶う。

比率であるか、選択であるかは、
同時実現の可能性で決まる。
同時に実現しずらければ、より選択的になり、
同時に実現しやすければ、より比率的になる。

また、個別次元は感覚系統を単位として存在し、
感覚系統に複数の感覚が属する形で、
個別次元は複数の感覚を属している。

感覚系統とは兼ねられている
複数の感覚の事で、
例えば、彩度、明度、色相、
空間位置(大小)という感覚は、
視覚という感覚系統に属している。
(兼ねられているとは
単独で存在しえないという事である。
大きさと位置がない赤色はないし、
彩度がない(null)色もない
(感覚器官に障害が起これば
生じるかもしれないが))

感覚は原感覚と高次感覚に分けられ、
原感覚は何の感覚からも生じない感覚で、
高次感覚はある感覚や、
ある複数の感覚から生じる感覚である。
詳細は後に話すが、
これは知覚や認識、感情などと呼ばれるものだ。

そして、この言葉で精神を語りなおすと、
精神とは原感覚の変化という
「入力」で高次感覚が変化、処理し、
高次感覚が原感覚を変化させる事で
「出力」を行う機械と言える。
ただ、単に原感覚の変化が
別の原感覚の変化となる場合もある。
(眩しいという感覚が、
思考などの高次感覚を介さず
(本能的、反射的)に、
目を閉じたいという欲求に結び付く様に)

情報処理(知性の働き)は意識量と関係している。
情報処理の速度は処理する情報の複雑性と
その情報への意識量との積に反比例する。
また、情報処理の可能性は、
意識量と情報の複雑さで決まる。
情報処理が不可能とは
情報処理の結果への意識が0である事である。

具体例を挙げると、
明晰な夢、明晰な想像は、
じっくりと考えて生まれるものではない、
無意識の産物である。

複雑な計算はなんとなく(無意識)でわかるが、
そのなんとなくを強く意識して、
細かな値を知る事はできないし、
投げたボールがどう飛ぶかなどと言った
複雑な物理計算も無意識に行われ、
具体的にどう計算したかを意識する事は難しい。

そして、この法則を数式化し、
数学的に考えると、この様な結論を得られる。

また、この定数N(正の実数)の値は
研究によって求められるものだと思われる。

感覚と感覚の関係は3つある。
「連携」「連結」「生成」である。

連携は複数の欲求が掛け合わさる事であり、
例えば、攻撃欲と性欲が掛け合わされれば、
サディシズムとなるし、
性欲の個人差(性癖、性の好み)は性欲が、
何の欲とどう連携するかで決まる。

連携する複数の欲求は、
それぞれ因子と呼び、
連携して形成された欲求の強さは、
構成する因子の積で決まる。

例えば、味覚は5つあるが、
ある料理で、ある1つの味覚だけが、
強く刺激されたら、
その料理の味は大きく変わる。
美味しいケーキも塩を
かけるだけで不味くなるし、
可愛い女性も皮膚がないだけで、一気に冷める。

積とは一つの因子が、
全体に強い影響を与えるからだ。
また、連携で形成された欲求は、
因子の欲求を大きく凌駕しない。
なぜなら、(相乗)平均化されるからだ。

つまり、n個の欲求が連携して、
形成される欲求の強さは、
そのn個の欲求の強さを
掛け合わせた値のn乗根となる。

ただの性欲と、サディシズムが連携した性欲が、
その強度において大きな違いはない事が
それを示していて、また、逆に言えば、
n個の欲求が連携してできた欲求の強さは
n乗根された各因子の、
欲求の強さの積とも言える。

そして、n個の因子の連携で形成される欲求の、
各因子がそれぞれn乗根であるとは限らない。
n個の因子がそれぞれ何乗根かされていて、
その積が、何乗根もされていない(1は例外)、
n個の因子の積をn乗根した値と等しければ良い。

よって、ある因子が
nよい大きい数、乗根されていて、
それにより、ある因子がnより小さい数、
乗根されている場合がある。
この、因子に乗根されている値は
重要性の次元と言い、
連携している因子の重要性を意味する。
乗根している数が大きければ、大きいほど、
その因子は1に近づき、重要性を失う。
全体への影響力を失うのだ。
(掛け算において1はないのと同じだから)
逆に乗根している数が小さい程、
重要性は高まり、全体への影響力を増大させるが、
乗根している数は必ず0よりも大きい。
0乗根だと発散してしまうから。
つまり、乗根している数は
正の実数の一部である。

次に「連結」がある。
連結とは、ある感覚の変化が、
別の感覚を変化させる事で、
その変化は意識量、快辛時間次元である。
そして、意識量の変化での連結を意識性連結、
快辛時間次元の変化での連結を快辛性連結と呼ぶ。

意識性連結は、ある感覚の意識量が増大する事で、
別の感覚の意識量が増大したり、
ある感覚の意識量が減少する事で、
別の感覚の意識量が減少する事を指す。

例えば、歩行という動作では、
右足を動かしたという認識の感覚の
意識量が増大する事で、
左足を動かしたいという感覚の
意識量が増大し、
それにより、実際に左足が動く事で、
左足を動かしたという認識の感覚の
意識量が増大して、右足を動かしたいという
感覚の意識量が増大する。

この例えは快辛性連結にも置き換えられ、
快辛性連結と意識性連結は等価である。

この様な連結はそもそも、どう生まれるのか?
それは知性である。

知性とは高次感覚を情報処理する機能であり、
連結は知性によって生まれる。

知性は感覚の意識量の操作と、
原感覚の快辛時間次元を、
別の高次感覚の快辛時間次元に
結びつける事で、感覚を操作する。
前者は意識性連結、後者は快辛性連結である。

別の高次感覚の快辛時間次元に
結びつけられる事は、
それ自体に欲求を感じていないが、
それを求める行為がある事から見いだせる。

目的の為の手段としての行為が
それにあたり、その目的は、
原感覚ではなく高次感覚である。

知性は高次感覚で情報処理をする。
情報処理とは真偽値、4つの論理演算、
演繹と帰納で行われる。
この真偽値は0~1の実数で表される。

知性で情報処理される
高次感覚は必ず、真偽値を持つ。

論理演算は、「と(and)」「または(or)」
「もしも(if)」「ではない(not)」の4つで、
知性は高次感覚同士を論理演算で
関係付けた感覚を生み、それを認識と呼ぶ。

演繹とは、「Aが真ならBが真」
「Bが真ならCが真」が成立する時、
「Aが真ならCが真」と認識する機能である。

帰納とは「Aに類する(属す)aはBである」
「Aに類するbはBである」
「Aに類するcはBである」
といった認識がある時、
「Aに類する(属す)物はB」であると
認識する機能である。

入力(例)の数が多く、
個々の例の共通性が高い方が
帰納で生じた認識の真偽値は高くなる。

同じ集合に属する要素での事象例の数をa、
その要素での事象のパターン数をb、
その事象例から帰納して生じた
認識の真偽値をcとした時、
c=1- (1/b)^a という式が成立する。

また、厳密に言うと、
ある帰納で得られた認識の真偽値は
複数の集合での計算結果の平均である。
集合の定義を狭めて、
事象のパターン数を減らした場合や
その逆など、連続的な範囲の結果を
平均した結果が、帰納法の真偽値なのだ。

帰納、演繹をする元となる認識は、
知覚と論理演算からなる認識である。

知覚とは感覚から抽出した感覚であり、
集合の感覚である。

そして、知覚の種類は先天的に決まっていて、
知覚の多くは、知性で高次感覚に、
快辛時間次元が結び付けられない限り、
快辛時間次元の値はほぼ0
(円という知覚自体に快感は生じない)だが、
そうでない知覚もあり、それは感情と呼ばれる。
(可愛い容姿という知覚はそれ自体に快感がある)

また、知覚を元にして認識は生まれるが、
人が認識と呼んでいるのは、
認識を元にした認識を元にした…と
何回も繰り返して生まれた認識で、
知覚を元にした認識程度の認識は
知覚と呼ばれている。

例えば、文字は輪郭という
知覚を元にした認識だと、
近年の研究で明らかになったが、
文字は知覚する感覚とされている。

なので、普段、使われてる言語での
知覚と認識の範囲の違いは
0と0より大きく1より小さい全ての数というより、
0~0.5と0.5~1といった感じだろう。

そして、ある認識の
「ある知覚を元にした認識を元にした認識…」と
繰り替えされた数が多い事を高度、
少ない事を低度と呼ぶ。

高度な認識はその認識を
生じさせる感覚が生じてから
その認識が生じるまでの時間が長い。
円を円だと知覚する事、
「あ」を「あ」だと知覚する事は一瞬だが、
あるキャラを「男の娘」と
認識するのには時間がかかる。

「男の娘」と認識するには、
「男である」「見た目は女である」
「若い」を認識しなければいけないし、
その3つを認識するのにも、
それぞれ何かを認識しなければならず、
最初の知覚、認識である低度な認識よりも
高度な認識は時間がかかるのだ。

また、子供が感情的で本能的なのは、
持っている認識(記憶)が少なく、
記憶を元に、知性を元に
行動できない為である。
子供は高度な認識を持っていない。

そして、精神の機能は3つに分けられる。
本能、知性、感情である。

本能は知覚ではなく、
知覚の元となる、何の感覚からも生じない、
原感覚の事であり、知性は認識の事である。

また、感情は認識にも生じ、
高度な感情とは高度な認識を
元とした感情の事である。

よって、高度な認識を持たない個体に
高度な感情は存在しない。

関連記事https://note.com/urosetouya/n/n1b1331e434c9

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?