#27 皇后と中宮

 昨夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、摂政・関白として権勢を誇った藤原兼家が死去し、その権力を嫡男である藤原道隆が継承する流れであった。道隆の専横を強調するためか、前例を凌いで一条天皇の女御であった定子(道隆の娘)を中宮に立后するエピソードが盛り込まれた。陣定(じんのさだめ)の公卿たちがみな難色を示す場面も描かれたが、はっきり言って歴史に詳しい方々以外には難しい話であり、特によく分かっていない平安時代においては、なおさらついていけないところがある。
 中宮とは、本来の字義からすると「皇后の住居」の意味合いがあり、三后(太皇太后・皇太后・皇后)の総称であった。太皇太后は天皇の祖母(先々代の皇后)、皇太后は天皇の母(先代の皇后)、皇后は天皇の妻(正妻)であるが、そうではない場合も多い。やがて皇后のみを中宮と称するようになった。三后は各一人であり、天皇を退位しても上皇は太上天皇であるため、上皇が出家せず存命していれば、上皇の正妻(皇后=中宮)は、そのまま皇后位を保持し続けたのである。
 同じく天皇の妻である女御(大臣以上の娘)、更衣との違いとは、皇族として遇されるかどうかの違いである。三后にはそれぞれ中宮職という役所が宛がわれ、言うなれば国家予算で世話される。これが、三后は各一人である理由でもある(皇族に国家予算が付くという伝統は今なお生きている)。天皇・上皇と同じ陛下の尊称が付き、その権威は別格である。
 定子が中宮に立后された当時、太皇太后は冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)、皇太后は円融天皇女御の詮子(一条天皇の母/藤原兼家の娘)、皇后は円融天皇中宮の遵子(藤原頼忠の娘)であった。詮子は女御であり、皇后を経ずに皇太后となった。先代の花山天皇が中宮を立てず、出家してしまったからであり、一条天皇の母であるため皇太后となった。道隆は円融上皇が存命であったにも関わらず、中宮における今上天皇の正妻という意味合いを強弁し、遵子を皇后のままで定子を一条天皇中宮に立后したのであった。その際、中宮職は定子に宛がい、遵子には新たに皇后宮職を設置した。ちなみに、中宮にこだわるのはもちろん天皇の正妻だからであり、その子供が立太子される可能性が高まるからである。想像を逞しくすれば、道隆はすでに自身の余命をうすうす感じ取っており、中関白家の将来のために強引な手法をとったのかもしれない。
 なお、かかる道隆の専横は、その後、藤原道長に受け継がれ、一条天皇中宮であった定子を皇后とし、自身の娘である彰子を一条天皇中宮にするという一帝二后を生み出す素地となった。

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