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【散文】言葉の色、かたち、温度 / 形にされ、音になる「言葉」

 おなじ意味を持つひとつの言葉でも、文字でどのように書くかによって、受け取られ方には差が出る。

「おなじ意味を持つひとつの言葉」
「同じ意味を持つ一つの言葉」
「おなじ意味をもつ、ひとつの言葉」

 漢字のひらき方や句読点の打ち方だけでもこんなに違う。そこに書き手の考えや思惑、ひらたく言えば“個性”が出る。

 他人の書いているものを校正するときは、その個性を消さないよう気をつけつつ、誤字脱字や意味のとおりにくい記述を見つけていく。自分が書き物をしている合間にこの作業をするときは、ぼーっとしていると、自己校正のような気分で赤ペンをいれてしまうので、特に慎重にやらねばならない。
 ちまたに溢れる、ありとあらゆる人々の“個性”ある文章を読んでいると、ものすごく肌になじむものもあるし、もうあんまり読みたくない、自分とは合わない、と感じることもある。そういう時はだいたい文章の内容にも共感できないし相容れない。たかが言葉ひとつで大袈裟なと思われるかもしれないが、一事が万事、ともいうではないか。

 たまたま先日受け取った連絡に「すごい曲、1推しの曲を教えてほしい」のような文章があった。
 まず「凄い曲」とはなんなのか、だ。書き手は私に説明しようと「紹介したい!聴いてみて!とおもう曲」などとも言い換えてきていたが、そもそもの依頼内容としても、なんのために「凄い曲」を教えねばならないのかも全然言語化できておらず、メールを読み終えて画面の前でしばらく長考してしまった。

 「いちおし」という言葉の書き方にしたって、なんとも許容しがたい。「1推し」?

「イチ推し」
「いち推し」
「イチ押し」
「一押し」

 いろいろな書き方を見てきたが、算用数字で書かれたものには初めてお目にかかったかもしれない。わたしならどう書くだろう。一番しっくり来るのは「いち推し」だろうか。文章の温度によっては「イチ推し」になったりするかもしれない。状況や書く場所によっても変わるだろう。……ひょっとしたらこのメッセージの送信者は、自分がどんな文字を選ぶのかにあまり頓着がないのかもしれない。だとしたら、日本で編集の仕事をしているのは不運なことだ、とも思う。
 日本語の美しさと難しさ、不思議な部分の多くを担うのはこの同義語や異表記の膨大さであり、せっかく難儀な言語を扱う土地に生まれついたからには、その表記の多さを楽しめたほうがいいよな、などと、とりとめもなく考えていた。

 音楽にかかわる仕事について、言葉でやり取りをする時に時々感じるのが、その語がどんなふうに発音され、どんな意味なのか、は充分認知していても、それを文字として書く時には「適当」になってしまう人がいるということだ。もともとが本の虫である自分には、しばしば「相容れないな」と思うことも、じつは多い。
 ただし最近は、この考え方自体がナイーブ過ぎるのかもしれないとも考えるようになった。個性的な作家の本を読み終わると周囲の見え方が一変するように、他人の書き方を通して新たな世界の切り取り方が見える事だって、たくさんあるのだから。
 自分の書き方は曲げられないが、他人の作ったものの受け取り方は変えられる、かもしれない。そう信じて、例の連絡先にはできるだけこちらの意図をありていに話してみようと思う。話す前から嫌っては行けない。対話しないとなにも始まらない。

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