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学ぶ場所が違うだけで、世間の目はずいぶんと痛い。 #思い込みが変わったこと

これが元の記事です。

私は現在進行形で通信制大学に通っています。目的は「司書資格」の取得ですが、私は高卒止まりなので、このまま司書課程の単位だけ取っても学修を終了しても司書の資格はもらえません。
つまるところ、司書資格は司書課程科目の単位を取得した状態で大学を卒業しなければならないということ。たしかこれは何度か書いた覚えがあります。
これを知ったのは2021年の7月です。入学の2ヶ月前というんですから、それはそれは甘く見ていたもんです。ふつうは下調べを1年くらい前から始めるもんだろがと突っ込みをもらいそうでもらいませんでした。
少ししか調べていない状態、つまりほぼなにも知らない状態で学びの門を叩いたわけです。

私の場合、完全に「生涯学習の一環」になります。自分のやりたかったことだから、いくらお金がかかろうと関係ないです。それに「高卒止まり」というのも少しコンプレックスがあったことは否めません。ぷよぷよのイベントに司書官(報酬キャラの設定が司書官だった)が関わっていたなんて、ただのきっかけに過ぎません。そこらへんにある石と同じです。

今は学歴がものを言う時代? それとも経験が買われる時代? 私は完全に「学歴社会」だと思っていました。
就職しないで奨学金を借りて大学行けばよかったと後悔しても遅かった。時間が経てばお金も貯まるだろう、ある程度貯まったら大学を探そう……なんて思って15年? 20年? 気づいた頃には、もう三十路を迎えていました。

悠長に考える時間が長い。逆を言えば、悠長に考えている時間のほうがもったいない。むしろ「考えながら動いていないと周りに置いていかれる」ような今の時代、学ばないと科学にも流行にも置き去りにされるんです。
でも、長ければ長いほどいいってわけじゃないんですって。たしかに古きよきものを大事にする人はたくさんいます。歴史や文化、伝統芸能はとてもいい例で、後継者や記録がなければ、すぐにでも廃れてしまいます。こういうことに興味ある方は率先して学んでいくといいと思います。で、できるなら後継者として立候補しても。
いくら人生100年時代を迎えるからって言っても、人間そんなに長くは生きられません。科学技術の発展はめざましいものがあっても「老い」には勝てない。小説の中には100年以上生き続けることができる技術が発明され、さらにいい方向に発展していく話がある一方、発展しすぎて本来の「人間が持っている部分」「人間くさい部分」がみんな廃れてしまったなんて話も、どこか探せばあるかもしれません。
このままなにもせずに沈むのか? なにも残さないままで死ぬのか? 私は他の人よりコミュニティが狭くてコミュニケーション力もないです。実を言うと情報のアップデートも苦手。自分で「他人と付き合うことが難しい」と線を引いてる人なんだけども、その中でやれることを、と考えた時、30代での大学挑戦という道を選びまして今に至ります。そう、アレです。キャンパスに行く必要がない通信制大学です。

「それって通信講座なの?」
「なんでそうなるんだよ。通信講座じゃないよ」

無事に入学を果たしました(私が通ってる八洲学園大学は入試がなくて書類選考のみ)。でもはじめてのオンラインセミナーは残念ながら仕事の調整がつけられなくて参加できませんでした。仕方がないので来月から参加という形に。別に参加しなくてもいいんです。同じことの繰り返しではありますが、それぞれに役割があったんです。
スクーリング形式の授業(すべてオンラインで処理可能)も同じ。私は最初「放送大学みたいなもんなのかな」と思っていました。そうです。公共電波に授業を乗っけちゃう形式。
ただ、放送大学もれっきとした大学だよと「初年次セミナー」の教員に教えていただきました。別に公共の電波に乗せようがネット経由で授業しようが、形態はなんでもいいのだと。それまでは「通信制大学でも大卒になるのかな。なんか『通信講座』みたいな感じで大学感がなさそうに見える」と思っていて、それを聞いて「放送大学もちゃんとした大学なら」と思い始めました。
身内には「通信制大学=通信講座」と勘違いされたままでした。たぶん今でも「通信制大学=通信講座」だと思ったままのはずです。

だったら証明してやるよ。ちゃんと成績だってつくんだから。口には出しませんでした。ちゃんと卒業できたら、資格証明書と履修科目の証明書を並べて突きつけてやるつもりです。

世間一般で見ると、どうしたって「通信制大学」はレベルが低いと思われているそうです。検索しても「通信制大学を卒業しても大卒にならない」だの「学歴にコンプレックスがあるから通信制大学に入学したけど、大卒になるのか」だの「通学制より見劣りする」などなど山のように出てきて、開いたページはその質問を悉く「違います」と斬り捨てていました。
「校舎がなければ学校じゃない!」なんて思われていたら、これは別の意味で大変です。完全な偏見です。

この「違います」は、数多の質問に対しての返答「通信制大学を卒業しても大卒扱いになります」です。メリットもデメリットもあるけど、通学制と同じできちんと最後までやって科目習得試験に合格すれば単位がもらえるんです。あとは卒業に必要な数を調整すればいい。ただそれだけです。
文系とか理工学系とかの括りではない八洲は良心的なのか、基礎科目はあっても必須科目がありません。資格取得に必要なものは必修科目がありますけど、基本的に卒業だけを狙うならなにを履修しようが学生の自由。ある意味パラダイスだと思いませんか? 数学や物理ばかりが並ぶ理工学系でも、外国語が歌って踊る文系でもないんです。専門学校ですらないから、ガチガチにその分野の知識を詰め込んでいくわけでもない。
つまり、自分が興味のある/やりたい科目を取ればよい──たくさんある中で決めるのに手間取る私にも優しいシステム──なんですが、司書資格の取得を目指す私は司書課程の科目も取らなきゃいけないので、一般教養になりそうなものとあわせて履修していく予定です。

調べていったら「違います」を証明する書き込みも出てきたので、そこで「ああやっぱり通信制でも大卒扱いになるのね」ということがわかってひと安心。いや、安心するのはまだ早い。勝負はここから。卒業までにあとどれくらいかかるのかな。

ここからは私の計画次第。通信制は通学制と違って4年で卒業しなさいという決まりがありませんでした。「どれくらいで卒業できるの?」の質問には「あと5〜6年ですかねハハ」と答えておきます。実際に働きながら学生をやっているので、平日仕事で休日勉強、隙間時間にレポート、おまけに通学制ではないから大量のレポートで理解度の進捗を見るわけですが、強い味方(スマホやMicrosoft Wordやその他テキストファイル)がいますし、レポート以外の科目習得試験(テスト)はテキストを見放題(こんなこと書くから甘いと言われるんでしょうけども、試験時間は同じはずなので、あまり変わらないと思います)。

そしてなぜか卒業率が通学制よりも低いと言われている通信制。レベルが低い理由はここからも来ているのかもしれません。
対面授業ではなくて孤独感たっぷりの中でひとり寂しく勉強しなきゃいけないし、向き合うのはテキストか本かパソコン、たまにスマホでも調べもの。毎日これでは途中で辞めたくもなります。卒業式もオンラインでした(この時は在学生として参加させていただきました)。
戦友や学友といった存在がいれば心強いんですけど、学校に行かないので顔も声もわかりません。わかるのは名前だけ。だからなんだって話ですけど、授業中は名前の欄を見る余裕なんてない。

大学のレベルが低いのと卒業率、ぜんぜん関係ないはずなんですけど一緒に考えちゃう。頑張って勉強した先に卒業があるんですから、卒業率が低いとか高いとか、基本的にどうでもいいんじゃないかと。要するに卒業できればいいんですから。

レベルが低い→途中で中退=頭悪い
レベルが低い→卒業できた=大して評価されない?
レベルが高い→途中で中退=ついけいけなかった?
レベルが高い→卒業できた=頭いい

実際そんなことはないと思ってますが。

入試の段階で難易度高めだと「頭いいね」って言われるのと同じくらいの嫌味に聞こえます。
あと「通信制大学は入試がない」と書きましたが、一部の通信制を置いている大学はふつうに入試はあるそうなので、通信制を通学制と同等レベルまて引き上げてくれるなら、それはそれで構わないんですけど。今後、通信制に対する世間の見方が変わっていくまで、私は同じことをバカのひとつ覚えみたいに何回も繰り返し書くかもしれません。

「通信制大学(大学通信教育)は文部科学省が認可した学校。卒業したら『通学制』の大学を卒業したのと同等の見方(大卒扱い)をされるべきだ」と。

上にも書きましたが「通信制は大卒扱いにならない」は嘘です。これは現役の社会人学生(私です)が教員に教えてもらったものを、自分の言葉で書いています。履歴書には(「○○大学(通信制)卒業」などと書けば伝わると思いますし、もしかすると面接で「通信制って根気いるんじゃないの?」みたいな流れに持っていくことができるかもしれませんが、確証はありません。
ただ、学んでいる内容は通信制でも通学制でもなんら変わらないはず。学ぶ場所が違うだけ。もしかすると通信制のほうが勉強のハードルが少し高めに設定されている、なんてこともあるかもしれません。メリットといえばシラバス公開と同時にテキストや勉強を始めることができて、レポートもシラバス公開と同時に書き始めることができる点。ここはデカいはずです。

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まだ半年しか経っていませんが、「石」につまずいたのは結果的によかったのかもしれません。30代になってもやりたいことが迷子だったから、石に感謝です。
ネット検索の仕方もわかったし、図書館に行く頻度も増えました。あの謎だった分類番号も、地図でいうところの「番地」だと思えばいい。他にも刑法とか心理学とか、行政に絡むものとか、ビジネススキルとか、一般教養とか、いろんな科目がある。たまたま生涯学習学科しかなくて、文系や理系なんかと違って専門的な分野がなくても、通信制でも「大卒」を名乗っていいんだと。
私みたいに一度社会に出た人間でも「学ぶ意志があれば、何年経とうが、何歳になろうが、誰になにを言われようが、学んでいい」ことも知りました。

それこそ「学びを止めるな!」でしょうか。

「生きてるうちは学びの連続」
誰かの言葉じゃないですけど、これはほんとにあるのかも。

幸いなことに、ものすごく優秀で頼もしくて面白い学友ができました。それとTwitterで複数人の方から「八洲の学生さんですか?」と声をかけられることもしばしば。
まあ、Twitterのプロフィールに思いっきり「八洲学園大学の学生やってます」って書いてあるからなんでしょうけども。

いただいたサポートは「自分探し(できてないけど)」のために使わせていただければなぁと思ってます。