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はいはい

モジモジ、ぴょんぴょんしていたと思ったら急にはいはいを始めた。はいはいは這い這いと書く?一度修得したその能力は彼の世界を急激に広げたらしく、原野をひた走る装甲車の如く部屋中を這い回っている。

私の肉体という障害物をものともせず乗り越えていく。部屋の端から端へ、目ざとく標的物を見つけては一直線で進んでゆく。

つかまり立ちも急に始めた。自分で立って、すっ転んで大泣きを繰り返している。

身長も体重も驚くほどの速度で増している。毎日見ているので気づきにくいのだが、写真を見返すと恐ろしくなる。身体が日毎に巨大になっているのだ。

なにより表情がどんどん豊かになっている。トライアンドエラーを通して、自分の意見の通し方を身につけている。こういう顔をすると言うことを聞いてもらえる、と。豊かな笑顔のバリエーションにつられて、あっという間に時間が過ぎていく。この可愛さは今しかないと思うと、少し切ない気持ちにもなる。

会う人会う人に、かあいいねえ!赤ちゃんモデルさんみたい!たくさん吸収してるね!笑顔がたまらない~!!と言われる。(そうでしょうそうでしょう)と思いながらにこにこしている。愛嬌豊かに育ったらいいな。

私も小さな頃は愛嬌たっぷりだったのだけど、大人になる過程のどこかで落としてきてしまった。愛嬌の振りまき方は相方から学んで欲しい。私の役目は息子の愛嬌にひたすらめろめろになることだ。

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先日、ドキュメンタリー番組で昭和の、ある家庭の映像を見た。ぞっとした。
泣き叫んでいる小さな子どもを、しかめっ面をした父親がぐわんと掴みあげ、隣の暗い部屋に連れて行き、威圧的な声で説教をしていた。

これだ。大きな指で、小人のような自分が押しつぶされるような幻の元はこれだ、と思った。

なんの権威を振りかざしているのだろう。虚しい。虚勢だ。

時代??そうじゃない。
魂への配慮が欠けているのだ。

木を思い通りに曲げようとしてへし折るバカがいるだろうか。折れた木が悪いのではない。折れるまで曲げようとしたやつがバカなのだ。

水は柔軟に下へ下へと向かって流れ落ちる。流れを導くことも出来るし、容器に入れれば移動させることも出来る。

それぞれに備わっている性質がある。

水が思い通りに動かせないからといって水を叩くのはバカだ。水がバカなのではない。水の進みたい方向を観察もできず、威圧と暴力で動かせると思い込んでいるやつがバカなのだ。

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観察をしている子を観察している。好奇心に目を輝かせたときのエネルギーは物凄い。飽きやすいけれど、集中と執着は強烈だ。そういうのがいいところなのに、大人の都合で摘み取るなんて愚かなことだ。

家の中こそなんでもありでいい。好きなだけ好奇心を伸ばして行った後でなら、落ち着いて取り組むようにもなるのだから。気分屋なのだ。本当は大人だって矛盾だらけの気分屋でクソガキじゃないか。外側だけ、社会の歯車らしい様子に押し込んでいるだけだ。

大人だって納得出来ない圧力で無理をかければ壊れてしまう。ましてや幼子の柔らかく瑞々しい若枝のような魂である。個性とタイミングをよく見極めてさえいればすくすくと伸びていくのに。どうしてあんな荒々しいことができるのだろう。ぞっとする。

折れた木は、元には戻らない。零れ落ちた水はもう掬いあげられない。

でも、子どもはどこかでずっと親の愛情を期待し信じているから、もし本当に間違っていたと気がついたのならいつでも謝ったらいいと思う。取り返しはつかないけれど、親の心からの謝罪は、子どもの深い傷を少しずつ修復してくれると思う。

元通りには出来なくても、修復はいつでも出来る。ただ親も子も、相手を自分の思う通りに動かそうとするのはいつでも不毛だ。

望ましいのは、笑ったり泣いたり怒ったりぶつかったり離れたりしながら、ひとつになり、そして離れ、必要な距離で繋がっていること。そのためには、どこまでも親が子どもの受け皿になることだと思う。

木が伸びていくように、伸びていき、命を広げていくなら、それで良い。正解も不正解もない。

やった方がいいことよりも、やらない方がいいことを考えておくのが良い気がする。

#子育て

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