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努力したことを後悔しない

知れば知るほど、知らないことばかりであると知る。

これは謙遜な表現でもあり、実際にその通りでもある。少ししか知らない方が、大胆不敵に「俺はこれを知ってるんだぜ」と鼻を高く出来るものだ。知識が増え、経験が増し、技術が巧みになると、それだけ考えることが増え、選択肢が増え、迷いが出て来る。知識が増えると悩みも増えるのだ。あまりに悩みすぎると「こんなに苦しい思いをして、一体なにやってるんだろう」と思ってしまうこともある。


最初の内に「根拠のない自信」でずんずん突き進むのも悪くない。その自信で、楽しく学び続けることができるからだ。どんなことにおいても大切なことは、必要な努力を積むか積まないかだ。

為せば成る。為さねば成らぬ。何事も。
成らぬは人の為さぬなりけり。

井の中の蛙の自信でも、積み上げていけばいつか井戸の入り口位には辿り着くだろう。その後も続けるかどうかは、とりあえず井戸の縁に立って、外の景色を見てから考えたらいいではないか。


また見方を変えれば、出来る事が増えれば増えるほど、さらに「出来るかもしれない可能性」が広がるとも言える。今までは「出来るとも思えなかった世界」が、「このあといくらかの努力をすると届くかもしれない世界」に変わる。

まぁ、その届くまでの道のりがさらに長いのだけれども、別にいいじゃないか。お金と時間と健康に無理のない範囲であれば、楽しめる限り続けたらいい。人生は長くもあり短くもあるのだ。

やっても、やらなくても、人は年を取る。
やらないで過ごす10年か。
なんとかやり続けて辿り着く10年か。

やらないで、悩まないで、努力しないで、その代りに何をする??
やらないことを選んだ先にある将来がいい?

やめてもいいし、やってもいい。

僕は努力するのが楽しいので、努力する。
そういう選択をする。

自分で。

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先日、家に調律師が来た。白髪でふくよかで穏やかで、いかにも経験豊富な職人さんであった。50代くらいだろうか。何でも、三年程前からピアノを習い始めたとのことで、優しい響きでピアノを弾いてくれた。それが、ベートーヴェンの悲愴2楽章、そしてショパンのノクターン二番だった。曰く「楽譜は全然読めません。速い曲も弾けません。でも耳で覚えて、手で覚えて、ゆっくりの曲を少しずつですが楽しんで弾いてます」とのこと。
……素敵やないか!

いろんな楽しみ方がある。自分の手で紡いだ楽の音を、自分の身体で楽しめるなんて最高だ。

部屋に置いてあった僕のチェロを見つけると「チェロを弾かれるのですか!?私も一度チェロを買い求めて習ったのですが、全然うまく鳴らすことができなくて諦めてしまいました。あの、もしよかったら何か聞かせていただけないでしょうか…?」と言う。
気の良い紳士だったので、僕も久しぶりに人前で弾けるチャンスだなと思い、喜んでバッハの無伴奏組曲から一曲弾いた。余りに間近で聞かれていたのでドキドキしたが、気持ちよく弾き終わって拍手を頂いた。

作業が終わって帰られた後に電話があり「あの、本日は失礼なお願いをしてしまい申し訳ありませんでした。プロの方だったら、本当に失礼なお願いだと妻に怒られまして…」と恐縮している。驚き、こちらも恐縮し「趣味で弾いているものですからどうかご安心ください~!!」と答えた。そして、確かにもしプロの演奏家であれば、彼らは演奏で生計を立てているのだからただで弾いてくれというのは失礼にあたるお願いになるのだなぁと認識した出来事であった。

今までで二度、報酬をいただく演奏をしたことがある。その時は身の引き締まる思いがした。これからも、拍手や報酬に見合うように腕を磨き続けようと思った。
だがそれはそれとして、聞いてくれる人のために演奏する機会があるというのはとてもありがたいことだと感じている。機会があれば弾きに行きたい。

楽器は、自分で弾いてみると、演奏家のすごさが身に沁みるものだ。そしてその苦労が分かるだけに、音楽が好きな人はみな友達という気持ちにもなる。演奏を聴いて、いろいろこだわっていることを尋ねてみたくなる。謙遜な演奏家たちには、尊敬の念を抱かずにはいられない。

調律師さんの仕事と演奏に対する、僕なりの感謝の気持ちが伝わっていたらいいな。

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