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名護屋城跡へ

佐賀県唐津市名護屋城へ。

なごや城と言えば、
名古屋城と、名護屋城。
愛知県の名古屋と、佐賀県の名護屋、後者が今回の舞台。
九州への旅を計画している時期、2023年の大河ドラマ「どうする家康」で、豊臣秀吉が天下人となり、朝鮮攻めを目論み、出兵起点として名護屋城を築くだの、出兵するだのしないだの、をちょうどやっていて、とてもタイムリーだった。
イカで有名な呼子市から名護屋大橋を渡り東へ向かい、さぁ行こう。

名護屋城跡は、本丸跡がある史跡のエリアと、名護屋城博物館から成る。
一通り巡ると、博物館駐車場→本丸跡→博物館で徒歩20-30分、博物館も見応えあり、更に30-60分位で一通り見ることができる

まずは、史跡のエリアへ。
任意100円の歴史遺産維持協力金を払うと、地図がいただける。その地図には、、、
徳川家康、伊達政宗、黒田長政、毛利秀頼、前田利家、加藤清正、福島正則、上杉景勝、島津義弘、、、
歴史好きでなくとも、ピンとくる名前がずらり。
大河ドラマをよく見る私は、演じていた俳優の顔を浮かべてしまう。

名護屋城、肥前名護屋城は豊臣秀吉が文禄慶長の役(朝鮮出兵)の際、国内拠点として築かれ、当時大阪城に次ぐ規模だったそう。
築城は天正19年(1591年)10月に開始され、秀吉病没の慶長3年(1598年)までの僅か7年間の存続。全国から160名もの大名が集められ、お城を中心に半径3キロ内に、各々の陣屋を建てられ城下町の人口は20万人に。江戸時代初期の大阪が20万人だったからその規模の大きさを想像できる。

史跡エリアの入口からは、本丸を囲う立派な石垣が見える。本丸に向かって南側の大手口から、緩やかなる坂道が石垣にそって東出丸まで伸びている、ゆっくりと上がっていく。
坂道を上りきると視界が広くなる。城の東側には堀跡があり、それを超えて海も見える。
石垣跡も素晴らしいのだが、お天気に恵まれたこともあり、景色が、空が海が、島々がうつくしかった。

大手口からの坂道、左手に石垣跡

東出丸を通り、三ノ丸を経て、本丸跡へ。本丸後は東西130メートル南北125メートルの広さで、西北の端には天守台跡も残されている。1番高いそこへ登ってみると、玄海灘からの海風がまた気持ちいい。 
城跡内の案内のプレートは陶器か磁器でできている、唐津焼かしら、趣きがあるブルーの焼き色が海と空の青さと相まって美しかった。

玄海灘方面を眺める

とても明るく気持ちの良い高台から、160もの大名たちが朝鮮をどんなふうにみていたのだろう。
老いた秀吉の奇行のように描かれることが多い、文禄慶長の役。
名護屋城の変遷や城下町の詳細と合わせて、知りたくなってくる。さぁ、博物館にも向かってみよう。

ホームページから拝借してます

佐賀県立名護屋城博物館、史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業と、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)及び日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として平成5年10月に開館。とても立派な建物で、見応えがありそう。

常設展示では、
名護屋城築城以前から江戸時代までこの地域の歴史、とくに日本と朝鮮の交流、
名護屋城、および名護屋城下の陣屋について丁寧に説明されている。
印象的なのは、日本だけでなく朝鮮半島の文化も丁寧に説明されていること、またひとつひとつの展示に、詳しい持ち帰り可能な説明のリーフレットがあること。
帰ってきて、この記事を書くにあたり読み返していたのだけど、詳しく読みやすく書かれている。
例えば、「朝鮮日々記に見る慶長の役」という一枚には、慶長の役に従軍した医僧「慶念」が約半年の従軍の期間に毎日詠み続けた和歌が紹介されている。朝鮮で何を見て何を感じたのか、戦いにおける残酷さ、忘れてはならない出来事をそこにいた人の目を通じてを知ることができる。

リーフレットは気になった展示のものだけ持ち帰ってきたのだけど、全部いただいてくればよかった…涙
もし訪れたらぜひ持ってきてよく読んだらいいと思う。

持ち帰ったリーフレットの一部

そして、特筆すべきは、こんなに素敵な展示が盛りだくさんの博物館、入場料が無料なのです。
企画展は有料のときもあるようですが、訪れたときは、全部無料でした!駐車場も無料!
ありがとう佐賀県。
また来ます佐賀県。

さいごに、この日の昼食は、呼子のイカを。本当に美味、イカ定食とイカ丼。また来ます、呼子漁火。

イカ定食、げその天麩羅が香ばしい
イカ丼、新鮮でゲソの吸盤が舌に吸いつく、甘いお醤油も美味しい


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