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幸せを失わないための手段。

「人の記憶って、全然アテにならないなあ」

と最近驚いた会話がある。友人Rと福島旅行に行った夜(『おでかけがしたい。⑲』参照)、宿の大広間で豪華な食事をいただいていたときのこと。
「高校のときさ、新宿のライブ行ったじゃん?あの日、モスで、隣の席のカップルにゴミかけられたの覚えてる?」
「えっ?なんのこと」
寝耳に水状態の私。

Rの記憶によると、あの日、私たちはライブ前に大喧嘩をやらかし(それは私も覚えている)その気まずい空気の中モスバーガーに入った。そして、どうしてそうなったのかまったく理解不能だが、隣の席にいた若いカップルが、帰り際に私たちの席を通り過ぎる際、自分たちの食べた後のゴミを、まだ食べている最中の私たちのバスケットへと無言でぶちまけたそうなのだ。

えええーっ。

「全然覚えてない。それで私たち、どうしたの?」
「いや、何も言えないし、私もみつこちゃんも突然だったからびっくりしすぎて固まって。でも、私がポテトの続きを食べようとしたら、みつこちゃんが『汚いからやめた方がいいよ』って、止めたの覚えてる」

そんなひどいことを平然とするカップルも驚きだが、それ以上に、そんな大事件をまったく記憶していない自分に衝撃を受けた。話の詳細を聞いても「そんなことあったかなあ…」
と、映像が全く浮かばない。モスに行った記憶だけぼんやりある程度である。そのカップルは、隣の席の田舎者らしきガキんちょが不機嫌にバーガーを食べている様子がよっぽど気に食わなかったのだろうか。
でも、その話を聞いて少し思い出した。
「私、その事件は覚えてないけど、その後なんか自然と仲直りしたよね?それって、ひどい目にあって仲間意識が働いて、喧嘩気分がふっとんだからじゃない?」
「ああ、そういえば、そうかも」

だとしたら、私の脳内で勝手にその非常識なカップルの振る舞いが「嫌なこと100%」ではなく、「仲直りのきっかけになった、そこまで悪くない出来事」として記憶が整理されたから、あまり覚えていないのかもしれない。

私の偏見だが、漫画家という職業の人は記憶力のいい人が多いイメージがある。けれど、一応漫画家を名乗っている私自身は、前述したように記憶力にあまり自信がない。
にも関わらず、noteで近況や昔話をよく詳細に書いているのにはワケがある。私には、記憶はなくても「記録」がたくさんあるのだ。

日記を時々書くようになったのは高校生から。大学時代は、ひとり暮らしの淋しさもあってほぼ毎日書いていた。それも、ヘタすると1日1ページではなく数ページも。社会人になってからは忙しさもありだんだん日記から遠ざかったが、その分、常に持ち歩いたスケジュール帳に、日々のちょっとした気分や出来事をメモしていった。その他にも、「自分にとって、これは大きなこと」と思うことや、どうにも消化できない不満や悩みは「書くこと」でいつも鎮めた。
2019年からはこのnoteを始めた。それにより、私の「記録」は増え続けた。そして、まさに天啓と言いたいようなひらめきで、私は2022年3月から日記を再開した。書きすぎて三日坊主にならないように、ページが制限される3年日記を選んで。
その日の記述にこうある。


「ふと思った。こんなにも日々、職場や私生活で色々なことが起きる。どれもたわいないことで、漫画のネタにはできないが面白いことが沢山。なのに私はいつのまにかそうしたことをアッサリ忘れてしまう。noteで使っている美大時代の日記を読み返すと今でもおもしろい。私の生活は今もおもしろいはずだけれど、書かなければすぐに消えてしまう。
書かねば。
父と母がそれぞれ体に不調を抱えつつもなんとか元気に暮らしていて、私は美術館で働けていて、トムとジェリーは毎日かわいいこんな尊い日々を書き残さないわけにはいかない。今日、突然そう悟った。」


あの日の私に今から飛んで行ってハグしてチューしたいくらい感謝を述べたい。なぜなら、日記を書き始めた約11ヶ月後に父が病気で亡くなり、そして、昨年末、母が亡くなった。



母の死はまさに突然だった。持病もなく、元気なうちはとパートを掛け持ちして働き、仲良しだった父がいなくなりがっくりしていたとは思うが、娘(私)との生活も思いのほか順調で楽しそうに暮らしていた。毎日好きなものを食べ、父の看病をしていた頃は控えていた古い友人たちに連絡をとっては会いに行き、父なき後の10ヶ月で娘と3回も日帰り旅行をした。東京の柴又でうなぎを食べたのは、亡くなるわずか1ヶ月前だった。

そして、いつものように午後のパートに出て、しっかり働いて、結婚が決まった職場の人に買っておいたクッキーをプレゼントし、帰宅して約1時間後に亡くなった。私は仕事で不在だったので詳しい状況は不明だが、心臓が突然、きゅーっとなってしまったようだと後でお医者さんから説明された。まだ後期高齢者の仲間入りもしていなかったのに。

3年日記を始めたときは、まさか、その間に父も母もいなくなってしまうなんて勿論夢にも思っていなかった。いや、心のどこかで父はそう長い間一緒にはいられないだろうと思っていたけれど、まさか母までとは。

「いくら仲良かったからって、同じ年に亡くなることないじゃん」

出来たての位牌に「2023年」の数字がふたつ並んだのを見たとき、思わずつっこんで、悲しいを通り越し、見事だなと、ちょっと笑ってしまった。


天才的ひらめきで始めたこの3年日記は私の生涯の宝物になる。また、たびたび父や母のことを登場させたこのnoteのアカウントも。


いつでも自分が戻りたい時間に戻れる、私にとって書いて記録することは、記憶だけでは残せない幸せの形をいつまでも失わないための手段なのだと思う。





今週もお読みいただきありがとうございました。
この度の震災で大切な方を亡くされたニュースで、「ついさっきまで、一緒にいたのに」と、突然のお別れに呆然とされている方たちの言葉をきいて、もちろん状況はまったく違いますが、私も、自分の気持ちと重なる部分がたくさんあって、何か、伝える言葉がないだろうかと模索しました。
人生って、ずいぶん残酷だなあと思います。
お寺様にも言われましたが、運命っていうのはやはり、あるみたいです。
でも、これからの時間がなくなってしまっても、今までその人と分かち合った幸せを奪うことは誰にも、神様にも仏様にもできないことです。

これからも、父や母との時間で経験したこと、気づいたことを作品や文章にしてこの世に残していくことが私の新しい幸せになります。

それを読んでいただける方が、もしいらしたら、今後もどうぞお見守りください。


◆次回予告◆
『最近行った展示の話』ArtとTalk㊱


それではまた、次の月曜に。

表題イラスト/©宇佐江みつこ


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