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わたしの尊い1日

安売りでまとめ買いした肉を、小分けにして、ラップに包みながら、思う。

もしも、今日が私の人生最後の日だとしたら、いま、これをしていることは、その日にふさわしいだろうか、と。

どんな人にも、明日が来る保証はない。今日を人生最後の日だと思って生きよ、と言った人は、1週間後、2週間後にも、お買い得なお肉で食卓をやりくりしようと、せっせと小分け冷凍をしたりなんかするだろうか。

かといって、最後の晩餐がごとく、1枚1万円もするお肉を焼いて出し続けたら、私の命より先に家計が尽きる。

1週間後、2週間後、その先を生き延びるために、私は小分け冷凍をしているのだ。尊い。

今日、私がパソコンに向かって、カタカタ、カチカチと打ち込んだ文字や数字は、私の命と天秤にかける価値があったのだろうか。今日が最後の日だとしたら、とうていやる価値があることには思えない。

が、待てよ。人前で歌ったり、ハキハキとプレゼンをする、なんてことに比べたら、パソコンに向かって、カタカタ、カチカチのほうが、ずいぶん、私の性にあっている気もする。

これで最後と約束されるならば、震える足で、顔を真っ赤にしてでも、歌ってみるのはありかもしれない。プレゼンだってしてみよう。

でも、明日も明後日も、は勘弁だ。

私は、明日も明後日もやっても構わないことを仕事にしているのだ。尊い。

今日が最後の日であるならば、もはや、眠る必要もないかもしれない。でも、今、猛烈に眠い。ああ、ショートスリーパーに生まれたい人生であった。

明日を生き延びるために、私は眠る。おやすみなさい。

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