牛田悠貴

1998生まれ。中南米の文学が好きだけど、スペイン語もポルトガル語も出来ない。 普段…

牛田悠貴

1998生まれ。中南米の文学が好きだけど、スペイン語もポルトガル語も出来ない。 普段は太鼓を叩いたり、詩を書いたりしています。日本音楽療法学会認定音楽療法士。

最近の記事

【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ④

********** 前々回の記事で、【弓と竪琴】における問いを、①~③として示した。 ① 詩という表現形式の〈独自性〉についての問い ② あらゆる詩的発話における〈普遍性・本質〉に対する問い ③ 詩が「詩として体験される」際の、〈独特の作用機序〉に対する問い 膨大な議論になるので当分、これからの記事では①の問いを中心に扱うこととする。 (②③の問いに関しては、直接は扱わないが、間接的には関係してくるかもしれない。) 今回の記事では、特に〔序論〕を中心に読みながら

    • 【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ③ 〔序論〕 –詩情(ポエジー)と詩作品(ポエマ)–

      _______________________ 今回は、前回の記事で説明しきれなかった、「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」の区別について扱う。 【弓と竪琴】における、パスの主張を理解するためには、この「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」という概念の区別と整理が必要不可欠となる。 なぜか? それは、前回の記事で示した問いのひとつである、①詩という表現形式の〈独自性〉についての問いに答えるためである。 より正確言うと、(「表現形式」という言葉は「芸

      • 【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ② 〔序論〕−特に40頁でたてられる問いについて–

        今回は〔序論(ポエジーと詩)〕についてまとめようと思っていた。…のだが、諦めた。 〔序論〕における議論は、そこにさかれた少量の頁数からは想像できないほど膨大なので、とてもひとつの記事には書ききれないような気がする。 しかも、僕がここで書きたいのは「要約」ではない。 【弓と竪琴】についての一連の記事においては、僕は「はしょる」ことへの抵抗でありたい。 ゆっくりでも良いから、出来るだけパスが記した言葉に対して誠実さをもって歩けたら…と思っている。 ただ、だからと言って、〔

        • 【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ① 〔初版への序〕

          岩波文庫版の【弓と竪琴】。その末尾に、解説として収められている、詩人・松浦寿輝による[大いなる一元論]、冒頭の一文。 まさに、その通りだと思う。 驚くべき綜合すぎて、ひととおり読んだものの、自分の中でまだ全然整理がつかない。 いつまで続けられるかも分からないが、何回かに分けて、この【弓と竪琴】について書くことで、僕の中でもすこしは「綜合」ができたら良いな、と思う。 あわよくば、これがささやかな「読書案内」となって、周りにこの本についてあーだこーだ言い合える人ができたら万

        【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ④

        • 【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ③ 〔序論〕 –詩情(ポエジー)と詩作品(ポエマ)–

        • 【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ② 〔序論〕−特に40頁でたてられる問いについて–

        • 【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ① 〔初版への序〕

          "Fog" by Carl Sandburg 意訳か誤訳

          霧              カール・サンドバーグ 霧が 来る ちいさな猫足を 忍ばせ 座して 見下ろす 港と街を 静かに 腰を据えた  のち   前進 (日本語訳詩 : 牛田悠貴)

          "Fog" by Carl Sandburg 意訳か誤訳

          "Sudden Light" by Dante Gabriel Rossetti 意訳か誤訳

          ※スマホの場合は横向き画面推奨(行の関係で) 突然の光 ダンテ・ケイブリエル・ロセッティ  ぼくは以前 ここに来たことがある それなのに   一体いつ どうやって来たのか 言うことが出来ない…  知っているんだ 扉の向こうには草原があって   つよく 甘い 香りがすること そしてあの ため息の音 岸辺では光が灯っていることも 知っているのに…   あなたは以前 ぼくのものだった——   それがどのくらい前のことだったか もう思い出せない…  ただ あの時 燕が舞い上が

          "Sudden Light" by Dante Gabriel Rossetti 意訳か誤訳

          “Crossing the Bar”(1889) by Alfred Lord Tennyson 意訳か誤訳

          砂州を越えて    アルフレッド・テニソン  黄昏 宵の明星  わたしを呼ぶ 澄んだ声よ! どうか海へと 漕ぎ出でる時  砂州に嘆きのないことを… それでいて 果てなき海原より寄せくる姿  再び還る頃には まるで 眠りながらの作法のように 音も 泡沫もたてない波の  満ち満ちた潮汐(しお)であるように… 薄明 暮の鯨音  そしてまた 此の夕闇にも! わたしが舟へと 乗り入れる時  どうか別れを惜しまぬように… 人々の考えが及び得る限りの境 — “時”

          “Crossing the Bar”(1889) by Alfred Lord Tennyson 意訳か誤訳

          "The Star" by Charles Bukowski 意訳か誤訳

          『スター』           チャールズ・ブコウスキー 俺は酔ってた そして奴等は 俺を運転席から引っぱりだして 手錠を掛け そのまま横倒した 車道で 雨の降る車道で… 奴等 並んで突っ立つ 黄色い雨合羽の サツどもだ 3 台もの車両から降りてきて… 服に水がずぶずぶ浸み 込んできやがった 俺は見上げた 雨越しに 月を 思えば 俺は 六十二歳 俺の存在は 俺自身によって 守られたのだ それも 〈ふたたび〉… そんな夜が来るとも知らず 日中 俺はある映画の 試写会に参

          "The Star" by Charles Bukowski 意訳か誤訳

          “Sweet Dancer”(1938) by William Butler Yeats 意訳か誤訳

          舞姫         ウィリアム・バトラー・イェイツ まいひめ あちら ちらちら 木の葉  庭場のうえの 其のまたうえの つるり刈られた 葉上(はうえ)で舞うよ にがい青春 さようなら 観客さまにも またさらば それよか あの娘(こ)の くろい雲にか 舞妓サンヤア、甘ァイ舞妓! 見知らぬ 男ら 母屋(おも)より いでて まいひめ あちらへどうぞと 言えども 言ってはならぬ 言ってはならぬ 狂っているから しあわせだとは 男らそっと 迷路へどうぞ あの娘の止むまで 踊らせな

          “Sweet Dancer”(1938) by William Butler Yeats 意訳か誤訳

          "Broken Heart" (1969) by Alexander Spence 意訳か誤訳

          壊れた心   アレクサンダー・スペンス 壊れてしまった心が いとおしいんだ 大地の上で壊れてしまった心 ぼくの肋骨に刺さりっぱなしになった刃物が みつかったらいいな 木に吊るされて やさしく吹かれている いっぽんの縄 みんな知らんぷりだろうね それから かみさま その右手 御手のおわりを 受け取ることにするよ みずうみのなか  舌も動かない 渇いたカウボーイのように 飛び込んで およげなくて 自ら死に向かう もしくは 歩みを止めて凍りついた登山家

          "Broken Heart" (1969) by Alexander Spence 意訳か誤訳

          『百年の孤独』 初読時の感想文というか、紹介文というか…

          以前、『百年の孤独』を別の媒体で紹介した時(多分初読時のもの)の文章が出てきました。 今回は、それをほぼ原文のまま貼り付けたいと思います。 中々大袈裟な言い回しだったり、雑な引用が入っているなあという印象が自分としても有りつつ、でも初読は良い思い出なので ではでは、ご笑覧くださいませ。 —————————————————————————— この作品を読み切るまでにかかった時間は、ひょっとしたら僕がこれまで生きてきた時間よりも長いのではないか。 そう感覚してしまうほど、

          『百年の孤独』 初読時の感想文というか、紹介文というか…

          『百年の孤独』 メモ的感想

          すこし時間ができたので、久しぶりにガルシア=マルケスの『百年の孤独』を再読。 『百年の孤独』は、やっぱり相変わらず面白くて、再読とはいうものの、とても新鮮な気持ちで読めました。 むしろ、初めて読んだ大学生の時は(そもそもの読書体験の少なさもあって)ストーリーよりも、「語りそのもの」に呑まれてしまっていたので、今回改めて読んだ時に、「あれ?こんなエピソードもあったのか!!」というような発見もあったり。 純粋に、物語の流れとしての面白さにも触れることが出来た再読だったと思い

          『百年の孤独』 メモ的感想

          2018年時点、日本初紹介。20世紀ラテンアメリカの作家五人

          今回は、野々山真輝帆[編]、彩流社の『ラテンアメリカ傑作短篇集〈続〉 中南米スペイン語圏の語り』(2018)に、収められた作品の中から、それまでに邦訳が無かった作家5人の作品について紹介したいと思います。 『ノクターン』(リカルド・グィラルデス、1915) 韻文で展開されるストーリー。 あくまでも、「詩のような小説」であって、「小説のような詩」ではないと思いました。明確にストーリーを語っていますし、しっかりとした「オチ」があります。メッセージ性としては「因果応報」…と言

          2018年時点、日本初紹介。20世紀ラテンアメリカの作家五人

          『太鼓に踊る』 アルトゥーロ・ウスラル=ピエトリ (本の感想と見せかけた、ベネズエラの郷土芸能のはなし)

          アルトゥーロ・ウスラル=ピエトリの短篇小説『太鼓に踊る』を読んだので、今日はそれについて。 まだまだ邦訳が少ないベネズエラの作家。ちょっと作品発表年すら判然としてないので、情報求む。 (1928年説と1949年説が…笑) そういえば、実はベネズエラの正式な国名は《ベネズエラ・ボリバル共和国》。でも長くてめんどくさいから、ここでは「ベネズエラ」で通させて下さい。 〈シモン・ボリバル〉を無条件に英雄視してしまう歴史観も、あんまり良くなかったりする、みたいなことを言ってる人もい

          『太鼓に踊る』 アルトゥーロ・ウスラル=ピエトリ (本の感想と見せかけた、ベネズエラの郷土芸能のはなし)

          『その女』(1932) フアン・ボッシュ

          今回は読書感想というよりは、ちょっとメモとか備忘録みたいな感じになっちゃいますが…。 ドミニカ共和国の作家、フアン・ボッシュの短篇『その女』を読みました。(「ドミニカ国」ではなく「ドミニカ共和国」の作家。) マルクス主義に傾倒しながら、同国で一時期大統領も務め、キューバのフィデル・カストロとも親交があったというボッシュが、23歳の時に書いた作品です。 初出版はキューバの雑誌でなのだとか。 作品は野々山真輝帆[編]、彩流社の『ラテンアメリカ傑作短篇集 中南米スペイン語圏文

          『その女』(1932) フアン・ボッシュ

          『三度目の諦め』(1947) ガブリエル・ガルシア=マルケス

          コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの処女短篇『三度目の諦め』を読みました。 とても読みやすいし、めちゃくちゃ面白い!!というのが、僕の率直な感想。 ガルシア=マルケス本人は、あまりこの時期の自作短篇を気に入ってはいないそうですが…。 ただ、それもそのはず。なんと言っても、『三度目の諦め』は、彼がまだ大学生の時に書いた小説なのですから…! 僕からしたら、天才すぎる…。という感想しか持てませんが、のちに『百年の孤独』『族長の秋』『予告された殺人の記録』といった

          『三度目の諦め』(1947) ガブリエル・ガルシア=マルケス