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劣等感からの解放

初めて会った人と、陸上競技の話をするのが苦手だ。

それは、仕事関係の人でも、ランナーでも、ショップで話しかけてくる店員さんでも同じである。

「いい筋肉してますね」、「何かスポーツやっているんですか?」と聞かれても、「ちょっと、鍛えているだけです」と濁してしまう自分がいる。

正直放っておいてほしいのだ。

「マラソンをやっています」とか「毎日走っています」と答えれば、その後に「どのくらいのタイムで走るんですか」という話になることが多い。

こうなると、面倒だ。

話しているうちに「箱根駅伝とか走りましたか?」という話題になるからである。

「走っていません」

そう答えたとき、「そうなんですね」という声と同時に「ああ、たいしたことないな」という心の声が聞こえるような気がする。

箱根駅伝の知名度は凄まじいと思う。

毎年、お正月に25%を超える視聴率を記録して、陸上競技を全く知らない人でも、どこの大学が優勝したのかくらいは知っている。

同じお正月に開催される全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)の優勝チームを、世の中のどれだけの人が答えられるだろうか。

日本人にとって、「箱根駅伝」は特別ということだ。

これは、高校野球の「甲子園」と同じようなものかもしれない。

世の中の陸上競技を全く知らない人たちにとって、「箱根駅伝を走ったかどうか」というのは、実績のあるランナーなのか、ただの人なのかを判別するためのモノサシになっているということだ。

インカレで優勝していても、出雲駅伝を走っていても、全日本大学駅伝を走っていても、箱根駅伝を走っていなければ、ただの人なのだ。

そんな私は、「ただの人」である。

それに対して、何かを言いたいわけでも、ただの人ではないと証明したいわけでもない。

そもそも、世の中の陸上競技を全く知らない人たちに、それを証明する必要も、理解してもらう必要もない。

それでも、そこに劣等感みたいなものを感じてしまう自分がなんとなく嫌なのだ。

それは、成人式まで遡る。

私は、関東地区の大学に行ったわけではないので、箱根駅伝とは無縁だったわけだが、2年生のときは出雲駅伝、全日本大学駅伝を走っていた。

当時、学生駅伝はマイナーで、箱根駅伝以外(出雲駅伝、全日本大学駅伝)は一般の人に認知されていなかったように思う。

そんな中で、一緒に成人式に参加した中に箱根駅伝のメンバー入りをした同級生がいた。

その彼は、久しぶりに再会した友人たちからの期待がすごかった。

一方で、自分は陸上競技をやっていることさえ知られていなくて、さみしい気分だったことを覚えている。

そのときから、初めて会った人と陸上競技の話をするのが、なんとなく苦手になったわけだが、つい最近、同じようなシチュエーションが再現されることがあった。

いつものような流れになるのかと思っていたのだが、ここで箱根駅伝から、福岡国際マラソンの話になった。

「福岡国際マラソンを走ったんですか?」と。

箱根駅伝に及ばないとしても、福岡国際マラソンの知名度の高さを感じた瞬間だった。

「いやいや、あんたスゴいよ。」って。

そう言われると、なんだか嬉しくなってしまう自分がいる。
我ながら単純だと思う。

今回が最後だったということや、出場者が限られていたこと、「国際」という文字が付いていることも、スゴそうに感じる理由の1つなのかもしれない。

この「スゴそう」というのが結構大事で、実際にはスゴくなくてもいいのである。

年末年始に、いろんな人に会う機会があったが、福岡国際マラソンの結果を知っている人が多かった。

「よく知っていますね」と言いたくなるくらいだったが、意外にも世の中の人が福岡国際マラソンを見ているということを知った。

今更ながら、私たちはすごく大きなものを失ったのではないかと感じた瞬間だった。

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