自由と不自由

競技を続けていく上で、最も重要なことの1つに練習時間の確保というものがある。

フルタイム勤務で競技をしているランナーというのは、(練習時間が確保されている実業団ランナーと比べると)相対的に制約が大きいと思う。

「絶対的に」とは言わない。

まず、1日8時間は働かなくてはならない。
場合によっては、残業しなければならないときもあるし、休日出勤だってある。

それがネックで、勤務時間を削減して走る時間を確保している人も身の回りにはいるが、私のように家族がいるとそこまではできない。

そういう意味では、自由に使える時間が少ないということになる。

でも、ここで「自由」ということについて考えてみる。

なんだろう??

この「自由」って・・・

人間は、自由にはなれない。
そもそも、世の中に自由に生まれてきた人なんていないし、死ぬのだって自殺でもしない限り自由には死ねない。

しかも、私たちは生きている以上、
服を着なければならないし、
ご飯を食べなければならないし、
屋根の下に住まなければならない。

そして、周りにはたくさんの人たちがいる。

そういう意味でも、人間は絶対に自由にはなれない。

自由」という言葉の恐ろしさは、それを意識することによって、「不自由」を感じることだと思う。

そして、「不自由」がいけないように思ってしまう。

不自由がいけないと思ったら、ランナーなんてやっていられない。

ランナーは不自由なことばかりだ。
トレーニングをしないといけないし、食事も気を使うし、とにかく自分の身体を管理していかなければならない。

そして、不自由がいけないと思ったら、結婚もできない。

なぜなら、結婚というのは自ら進んで不自由になることだからだ。

実際に、結婚して自由になったという人はあまり聞かない。

それにも関わらず、これだけ多くの人たちが結婚をしているということは、「結婚」というのは相対的に見ていいものなんだと思う。

生態的、力学的、社会的に見ていいものなのだ。

絶対的に」とは言わない。

相対的に見ていいものなのだ。

「結婚」というのは、絶対的に不自由になること、そして相対的にいいもの。

ここまで言えば、もう分かると思う。

そう、人は不自由になることに幸せを感じるのだ。そして、それを「絆」というのだろう。

「絆」というのは、国語辞典をひいても「縛りあうこと」と書いてある。

馬や犬をつなぐための道具だ。
そして、自由を奪うものだ。

人は、縛りあって、信じあって、頼りあって生きていくのが好きなのだ。

そういう意味では、駅伝も同じだと思う。

競技は1人でやっている方が絶対に気楽だと思う。

それにも関わらず、私たちは走る仲間で集まって、チームを作って、目標を共有して、ときにはぶつかり合って、悩んで、苦労して、切磋琢磨して走ろうとする。

1人で走るよりも、仲間と走った方が楽しいし、幸せを感じることができるからだろう。

もし、自由を奪われること、自由を捧げることに幸せがなかったら、人類はとっくに滅んでいると思う。

制約があるからこそ、知恵を出したり、工夫したりして、上を目指すことができる。

そういう意味で、不自由は決して悪いものではないと思う。


この日本という国には、明治時代になるまで「自由」という言葉さえなかった。

それでも誰も困らなかったのだ。

しかし、欧米から「リバティー」とか「フリーダム」という言葉が入ってきて、それを福沢諭吉が日本語に翻訳したのである。

この日本語訳はかなり困難だったそうで、1週間くらいかけて翻訳したそうだ。

そして、仏教の「自由」という言葉を持ってきたのだ。

しかし、本来欧米からやってきた「自由」というのは、古代ギリシアにおける「自由人」と呼ばれる人たちが由来となっている。

この「自由人」というのは、20人の奴隷を持つことによって労働から解放された人たちのことを意味していたのだが、

1人が「自由」になるために20人が奴隷になる・・・

こういう仕組みの中の言葉なのだ。

欧米では「自由」というものは、掴み取るものであり、勝ち取るものであり、奪われてしまうものであり、利権争いや階級闘争の中で使われる言葉だった。

言い換えば、いつ失われてしまうのか分からない不安の中で生きるということだ。

しかし、福沢諭吉の翻訳は素晴らしかった。

奇跡だった。

「自らを由とする」

自分の選択は正しいとする」ということだ。

私は、20人の奴隷を従えるよりも、「自らを由とする」方がいい。

それなら、練習できる時間が短くても、前向きに楽しく走れると思う。


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