少子化と死刑制度と人命の重さに対するマインド変化

日本に限った話ではないが、人類は多産多死の時代から、多産少死(=人口爆発)の時代を経て、現代は少産少死となっている。

なぜ多産多死と少産少死の間に多産少死が来るのかと言うと、要は医療の進歩で子供が死ぬのが当たり前ではなくなっても、子供は5~6人くらい生むのが当たり前というマインドは、急には変わらないのがその理由。

現在の日本の消費マインドがなかなか上がらずデフレに苦しんでいるのも、貯蓄は美徳、倹約は美徳という前世紀のマインドがなかなか変わらないからだろう。

特に平均寿命が伸びまくってる今の日本は、マインドチェンジの速度が遅くなってると思う。ただでさえ高齢者は若者に比べるとなかなかマインドが変わらないし、しかもマインドの変わらない高齢者が長生きして、社会全体の多数派となれば、国全体、社会全体のマインド変化の速度が遅くなるのは当然。

はんこやFAX、現金払い主義、あるいは日本の音楽業界がいまだにCD販売中心なのも、こうした日本のマインドチェンジの遅れが原因であり、詰まるところ少子高齢化が原因。


少子高齢化は、日本人の人命に対するマインドにも変化を与えている。第二次大戦の頃はすでに多産多死の時代ではなく多産少死の時代であったが、まだまだ多産多死の時代の価値観をひきずっている人も少なからず存在し、故に人命の価値は軽かった。神風特攻隊などという現代人から見れば狂気の沙汰としか思えない戦術も、綾波レイではないが、死んでも代わりはいくらでもいる時代だったからこそ可能だったと考えられる。

しかし、子供が滅多なことでは死なないということが当たり前になってくると、だったら苦労して5人も6人も産まなくて良くない?っていう風にマインドが変わっていき、一人っ子が珍しくない時代へと突入していった。

しかし、子供が一人しかいないとなると、子供を殺された親の怒りは、子供が5人も6人もいる親の怒りよりもきっと激しくなるだろうと想像できる。例えば光市母子殺害事件とか、あるいは最近だと池袋暴走事故などでも、加害者への風当たりが強いのは、代わりがない命を奪われたことに対する怒りが大きいように思う。

こうした感情は、加害者に対する厳罰化をいっそう強く求める声にも繋がっていると思う。いくら海外で死刑廃止の機運が高まろうとも日本では一向に死刑廃止派が多数派にならないのも、加害者への怒りが強すぎるからだろう。ただし少子化は欧米でも進んでいるはずなので、加害者への怒りに対してどういう折り合いを付けているのかは分析する必要があるだろう。

もう1つ、10年前の石巻市立大川小学校の悲劇についても、もちろん教員たちの津波に対する知識や意識の浅さが最大の原因だが、それだけではなく、命を大事にしすぎるマインドが裏目に出た、と言えなくもないように思う。

あれだけの大きな津波なのだから、全員助かることなどさっさと諦めれば良かったのに、「一人でも死んでしまったら責任問題になる」という平時のマインドで事に当たってしまったのだろうと想像する。

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