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「死にたい」という友人に対してどう接したらいいですか


こんばんは〜
今日はちょっと重いけどこんなテーマでお話ししていくよ。

「死にたい」という友人に対してどう接したらいいのか、というのがご相談したい内容です

という内容でした。


これは、個人的にもよく質問されることのひとつなんだけど、まあとっても難しいよね。
僕のように診察室の中で伝えられる「死にたい」と、プライベートの場で発せられる「死にたい」っていうのは、質感が違うだろう。

ただ、いろいろと経験した中で僕が大事にしているのは、以下の2つの方針。


①「死にたい」も含めた、すべての感情は「相手のもの」であり、どんな感情であっても否定されるべきものではない。
その人が感じたままの感情を感じる自由がある。


②その人が抱えている「死にたい」くらいのしんどさは、その人自身のものであり、その人自身がとりくむべき課題である。


まず①について。

「死にたい」というのは、受け取る側からするとサプライズのある感情だとおもうことがほとんどなので、すんなりと受けいれるのが難しい。

距離の近い人ほど、きっと困ってしまうだろうし、いなくなったらイヤだろうから、混乱が大きいだろうね。
だから「ちょっと待って」「そんなこと言わないで」とか、「死ぬなんてダメだよ」とか言ってしまうんだけど、そのように言ってしまうと、意図せずに相手の「感じたままの感情」を否定することになってしまう。

これは、否定された側としたら、本当に堪えることなんだよね。
きっと、もう本当の気持ちを伝えてくれることはなくなってしまうだろう。


「死にたい」と表現される感情は、とても複雑で、矛盾を孕んでいることがほとんどだ。自分でも正確にわかってないことがほとんどなんじゃないかとおもう。ただ少なくとも、「死にたい」の中に「生きたい」がひとかけらもなければ、わざわざそれをリスクを冒してまで他人に伝えようなんてコストを払わないだろう。
「助かりたい」と「助かりたくない」が同居している。そんな訳わからないものに心を占拠されていたら、だれでも疲弊し、混乱するだろう。ただ、「死にたい」という感情は、そういう類のものなんだよね。


全ての感情には「圧力」がある。その中でも「死にたい」は最も高圧な感情のひとつだとおもう。それを、どこにも発せずに自分の胸の内に抱えつづけていることは、文字通り破裂してしまうほど苦しいことだ。
どこかでその圧力の高まりを開放して、苦しさから逃れたいというのは、自然なことだと思う。

「死にたい」を受け止めたとき、その支えになりたいと願う人間が伝えるべきメッセージは
「その気持ちを、正直に伝えてくれてありがとう」であり、コミュニケーションの一歩目としてはこれ以外にはないよ、と尊敬する先生に教えてもらった。

松本俊彦先生は、「誰かにつらい気持ちを告白することは、清水の舞台から飛び降りるほど勇気の必要なことである」と言っている。


もしかしたら相手は、「この人なら受け止めてくれるかもしれない」という望みをもって勇気を持って飛び降りてきたのかもしれない。そうと考えると、そうした言葉を伝えてくれたことに誇らしい気持ちが出てきたり、少なくとも「無下にはできないな」と感じる人は少なくないんじゃないかなとおもう。

そもそも「死にたい」も含めた、ネガティブな感情や、自分でもよくわからない未整理の感情を伝えようとしたときに、それが何人のジャッジもされず、ノーリスクですんなりと受けいれられる場所があまりに少なすぎると思うんだよね。


それができる場所はとても貴重だから、もしあるとしたら大事にしてほしいし、無かったら見つける努力を惜しまないことをおすすめする。
ゼロから見つけるなら、カウンセラーさんのような心理の専門家を頼るのが一番ミスが少ないと思うよ。

次に②について。
これは、境界線についての話と言い換えてもいい。
「自分のできることには限りがある」ということを理解した上で、関わっていくことが大事だと思う。
相手の荷物を全て抱えることはできないし、それをやってしまうことで事態がもっと困難な状態にもなりうる。


たとえ「それはできない」とか「関わりを控えたい」という気持ちを伝えたことで相手に何かあったとしても、それは本質的にはあなたのせいではない。
冷たく聞こえるかもしれないけど、他者としてができることは決して多くないことを自覚しながら、主体性をもって関われる範囲で関わる、というのが精一杯なんじゃないかとおもう。


「主体的」というのは、その人との関係がどれだけ大事かっていうのを考えながら、「自分がどこまで関わりたいか」という主観と境界線の意識を持って、後悔しないように関わるというのが、今時点での基本的なスタンスなんじゃなかなーと考えている。

別に仕事なわけではないから、「自分が関わりたいとおもうかどうか」を大事にしたらいいんじゃないかなと。



もし「この人が心配で心配で仕方なくて、どうにかなりそうだ」ということなら、それは「自分の問題」として考えた方がいい。


「『心配しているから』っていうと、いろんなものが乗っかって、何でもアリになっちゃうじゃないですか」と言っていた人がいたけど、本当にその通りだと思うし、今でも強く印象に残っている。


「心配だから」というのはあくまでも自分の問題なのであって、それを根拠に誰かの行動を制限したり、境界線を踏み越えた関わりをしてしまうことがあるなら、それは「自分が不安だから」といって誰かの行動をコントロールすることとあまり変わらない。


口癖のように繰り返される「死にたい」もあり、それとどう向き合えばいいのかわからない、という質問もよくいただく。
それに関しても、松本先生の本から引用させてもらいたい。


一部の患者のなかには、頻繁に「死にたい」を口にする者がいる。しばしばその感情を抱くきっかけは比較的ささいな出来事である。こうした患者は、援助者の陰性感情を刺激しやすいが、その一方で無視すれば「死にたい」と訴えるにとどまらず、援助者の関心を惹くために演技的な自殺行動へと表現方法をエスカレートする可能性もある。

こうした患者の多くは、幼少時から虐待やネグレクトといった不適切な養育環境に生育していたり、深刻ないじめやDVなどの被害を受けていたりする。したがって、たとえるならばこうした患者は、平常時でも「すでにコップいっぱいに水が入っていて、たとえ目薬一滴が加わっただけでも水がこぼれてしまう」状態にあると理解すべきである。(中略)

この種の患者の口癖のような「死にたい」を無視したり、「ささいなことで死にたくなる」という傾向を批判したり、皮肉ったりするのは好ましい対応ではない。といって、訴えられるたびに自殺の計画や致死性の予測などを詳細に聴取するのはかなりの労力を要するだけでなく、患者の病理を悪化させる危険性がある。

このような「死にたい」という訴えには、落ち着いた態度で、「何がありましたか」と、「死にたい」気持ちよりもその背景にあった否定的なイベントに焦点を当て、共感・助言をするという対応が望ましい。



せっかくなので、松本先生の本も紹介しておくね。
支援者向けの本だけど、ここのあたりのリアルなところを理解するのには一番お勧めできるやつです。


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