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【歴史探訪】日本一の材木を扱う 専門家「牛窓杣」と船大工

  現代では日常生活で「杣(そま)」という言葉を聞くことはほとんどありません。もともとは権門勢家等の建築用材のある山林やその材木、またそこで働く人を指す言葉です。江戸時代には「牛窓杣」と呼ばれる人々が四国や九州に出稼ぎに行った記録が残されており、高知には「牛窓円蔵」と記されたお墓があるそうです。また、高知県安芸郡田野町には「牛窓」という名字の方々がいらっしゃいますが、地名を名字とするパターンの一つに、「出身地を離れ現地で成功した場合に出身地名を名字とする」ことがあるようですので、牛窓さん達は現地で材木の専門家「杣」として成功した人々だったと考えられます。
 一口に材木と言っても木の種類、産地、状態、用途に合うかどうかなど、素人にはわかりづらい、大変奥の深い世界です。でありながら、「日本一の材木は、土佐の魚梁瀬(やなせ)の杉である」と大上段からブランド価値を決定づけたのは、やはりあの人、太閤殿下豊臣秀吉。京の佛光寺の大仏殿用に、時の土佐領主 長宗我部元親が材木を献上したとき、秀吉はまず土佐、次に九州、そして木曽や熊野の材木を選んだと、高知の豪商武藤致和・平道によって書かれた『南路志』などに書かれています。そののち家光将軍時代正保期に書かれた『毛吹草』には諸国の名産品がずらりとリストアップされ、正保2年(1645)版では土佐藩6行ある5行目に「山檜柱」とはありますが、寛文12年(1672)版ではその「山檜柱」に加えて、7行ある冒頭に「材木」が記されていますので、この間に土佐藩の材木の認知が抜群に高まったと考えられます。
 しかし、土佐は土佐でも、特に「魚梁瀬」とは一体どういうことでしょうか。魚梁瀬は地名で、柚子で有名な馬路村にあります。平家の落ち武者(平教盛とも言われています)が山の奥に隠れ住み、ヤナという魚を捕る道具を仕掛けていたけれども、そのヤナが瀬に流れついて「誰かが住んでいる」と発覚したということでつけられた、いわくのある地名です。※ちなみにアンパンマンの作者は関係ないそうです。その川は奈半利川で、馬路村から北川村を経由して、田野町で海にそそいでいます。魚梁瀬の材木も川を使って運び出されていましたので、川の最下流である田野の港に豪商が何軒もいたそうです。豪商田野五人衆の第一は泉州から山内家とともに来た米屋岡家でしたが、牛窓にも岡家がありましたので、ルーツをたどれば先祖を同じとするかもしれません。いずれにせよ、日本一の魚梁瀬の材木を扱っていた田野の港町に牛窓さん達がいることは、とても重要な事実です。
 江戸時代はいわゆる「お手伝い普請」と言われ、江戸城や二条城などの建築や改修を藩が負担しなければならず、特に江戸初期は大阪冬の陣などの戦乱の後始末もあって材木の需要が著しく、大阪に近いこともあって、土佐からどんどん木が運ばれていきました。木は育つのに時間がかかりますので、一時期枯渇しそうになってしまいます。土佐藩では資源を保護するために「御留山」などという仕組みで厳しく管理をした成果により、資源が保たれただけでなく、ブランド価値が上がり、定価で売れ、大阪に材木市場もできたほど、といわれています。
 土佐は広く、森林面積も大きく、材木は魚梁瀬だけでとれるわけではありません。材木を運ぶ川として吉野川も重要なラインでした。何しろ川自体が大阪に向いて流れ、河口は徳島、つまり大阪の非常に近く。しかし吉野川は昔から日本三大暴れ川「坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)」と言われるほどで、今でもラフティングなど急流下りのスリルを楽しむレジャーが盛んな川です。よって、材木を運ぶにも当初は協力的だった阿波藩も、度重なる災害後始末により「土佐の材木を運ばせると、えらい目にあう」という態度を隠し切れなくなったといわれています。
 暴れ川といえば、秀忠時代に活躍した「水運の父」角倉了以が、平底船で海運を活発化するために大堰川を開削した際に、牛窓の船大工や船頭が集められたと言われています。了以はもともと近江の土倉業(金融業)でしたが、朱印船を見に備前を訪れた際に、和気川を行き交う船を見て、「大堰川の上流丹波から京山城へ物資を運ぼう。」と思いつき、幕府の許可を得て私財を投じて開削し、驚くほど短期で工事を終え、通行料を得るサステイナブルなビジネスを始めました。朱印船貿易は一発狙いの富が得られる魅力に満ちていましたが、荷を失うリスクもありました。のちに貿易自体ができなくなるので、日々河川通行料から得られる経営に転換していたことは、角倉家にとって有益なことでした。大堰川だけでなく京から大阪へは高瀬川を通し、豊かな丹波と大阪の豊かな物資の流れを作り、角倉家はさらに大きくなります。大堰川は今でも「保津川下り」という行楽で有名ですが、激流であったため開削工事は容易ではなく、角倉家の技術は非常に高かった、それが評判となり、幕府から富士川や天竜川の開削も請け負ったほどです。歴史に「……たら」「……れば」はありませんが、角倉了以が吉野川を開削していたら材木ビジネスの拠点が違った形になっていたかもしれません。
 角倉了以はいかに技術が大事かを知っていた、その了以に牛窓の船大工や船頭が集められた、つまり彼らは非常に優れた技術を持っていた証明でもあります。もともと牛窓には船をつくる・操る技術集団がいましたが、さらに家光の寛永末期から船大工が移住し始め、慶安期に新町ができ、家綱の明暦に大浦浜の開発、寛文期に裏町や出来町と船大工町が広がっていきました。「牛窓の船は乗り前が良い」と評判。また、ちょうどこの頃の池田家の文書には「牛窓に杣六百人」と書かれており、船大工や杣などで港町はかなりの賑わい。そして延宝元年1673年に服部家元祖鍛冶屋五郎作信則も移住し、「農具鍛冶を開業す」と「服部姓系譜略述履歴 全」にありますので、船大工用の道具ではなかったのか、「農具」とは田畑用かあるいは山仕事用の農具かが気になるところではありますが、鉄を鋳る技術を頼みとして、栄える商売の場港町に出たことに違いありません。
 さて、延宝天和期になると都市発展と災害復興のためにさらに材木が求められるようになりました。記録では「牛窓村平六が土佐より材木を大阪へ積み上がり」だけでなく「牛窓村久左衛門が日向県※(資料のまま)に材木積みに下り」とあります。また、この前の年「日向油より牛窓杣衆乗合」という記録もあります。この「油」というのは飫肥(おび)藩(今の宮崎県日南市、宮崎市の一部)の油津港で、飫肥の杉も大変上質と言われていました。服部家が材木の商いで富を得るのは少しのちにはなりますが、この飫肥藩には服部姓の人がいて、いわゆる「東服部家」とのつながりもあると言われています。「東服部」とは、初代五郎作から数えて七代目平兵衛の分家で、船大工の多い東町(新町・出来町)にあり、材木の商いで大きくなりました。東町にはもっとも古いだんじりがあって、それはちょうど東服部が分家された1818年作でもあり、「船」だんじりなので、まさに東町船大工衆の粋を今に伝えるものと言えます。

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 では、杣人をイメージできるものは残っているでしょうか。
 ペリーが来航した1853年、『狂歌百物語』が書かれ、妖怪の「さとり」の項に杣人が登場します。「来べきぞと気取りて杣が火を焚けば さとりは早く当たりにぞ寄る」という狂歌、そして杣と、妖怪というよりもちょっととぼけた猿のような「さとり」が描かれた絵。さとりは人の心を読むことができ、「お前、怖いと思ったな?」などと相手の心を見透かして言い当てるのですが、一方では焚火などがはねてぶつかるとびっくりして逃げ帰る小心者でもあります。牛窓の杣衆も、土佐や日向の山で過ごす時間には、山の中の生き物達と結構仲良く、寛いで過ごしていたかもしれませんね。

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参考資料:
「江戸時代の瀬戸内海交通」、「牛窓町史 通史編」、「南路志」、「毛吹草」、「狂歌百物語」

監修:金谷芳寛、村上岳

写真:写真AC、金谷芳寛

イラスト:ダ鳥獣戯画

文:広報室 田村美紀


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