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【歴史探訪】牛窓と称し、小西アゴスチニョ行長に属する町

 1549年、鹿児島にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが渡来しました。上洛するにあたり山口を経由して瀬戸内海を渡ったと考えられています。その後も次々と宣教師が訪れ、当初は交易のメリットを重視した信長や秀吉の保護もあり、キリシタン大名も現れ、キリスト教は徐々に広がりました。また、オリーブを初めて食べた日本人が信長か、秀吉か、諸説ありますが、おそらくそれは宣教師からの贈物、樽に入ったピクルスであっただろうと言われています。
 一度は聞いたことがあるけれどもあまり詳しくは知られていない戦国大名 小西行長は1558年に京都で生まれました。父・小西立佐は京都に基盤を置く商人でしたが、堺の豪商である日比屋氏とつながり、洗礼を受けてキリシタンとなり、イエズス会と密接な関係を構築していました。一説によれば、行長は18歳になると岡山市弓之町にある魚屋九郎右衛門(もともと長船町福岡にあった呉服商)の養子となり、商いで宇喜多家を何度か尋ねるうちに才能を見出され、宇喜多家の御船組員に加わって武士となり、さらには宇喜多秀家が織田家に人質として出されて付き添うと、今度は秀吉に才知を認められて1580年頃から父と共に豊臣家直臣として重用されるようになり、行長の母ワクサもこの頃、秀吉の正室寧々に仕えていたといわれています。ただし、行長が秀吉に見いだされるまでのこのサクセスストーリーは今のところ、正確な資料の裏付けはありません。
 行長の動向が確かなものと認められるのは1579年からです。
1579 備前宇喜多氏使者として秀吉に面会
1580 この頃、父立佐とともに秀吉に仕える
1581 この頃、室津を所領とする
1582 秀吉から小豆島の管理権を委ねられる
1585 この頃、小豆島を所領とする(1万石)
    フロイスに「水軍司令長官」と評される
1586 小豆島に司祭セスペデスを招聘してキリスト教を
    布教。父立佐、堺奉行に任命。
1587 この頃「摂津守」を名乗る
1588 宇土・八代など肥後半国を所領とする
 1581年に信長が蜂須賀氏あてに書いた書状には「室津から小西が安宅(船)で乗り出し、敵を家島まで追い上げた」ことを賞賛した記述があり、室津を起点にしていた行長の具体的な働きの一つと考えられます。この時点ではまだ秀吉は信長に仕えて中国地方の攻略を担っており、重要な瀬戸内海の要所を船団を管理統率する能力がある行長親子に任せていたと考えられています。小豆島での動きとしては、何年かは不明ですが、行長が吉田浦一帯の有力者宛に、田畠開発を命じ、「金ケ崎から西泊之はなまでしっかり行うように」と伝える書状があります。
 この頃、人徳者として名高いキリシタン大名・高山右近の後押しもあって行長は洗礼を受け、アゴスチニョという霊名を受けました。キリシタンとしての行長の記録は、イエズス会日本年報の1586年「七月二十三日 堺を発し右のパードレを同行して、かの小豆嶋の前に至る。牛窓と称し同じくアゴスチニョ(行長)に属する町に彼を残した。……中略……余は備前国の港牛窓においてビセブロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。」とあるようです。また、小豆島のオリーブ園には平和の十字架塔があり、その看板には「1586年7月23日、小豆島の領主小西行長の請願によって、宣教師グレゴリオ・デ・セステベス(カトリック教会、イエズス会士)がキリスト教を伝道した。短期間に1,400人が洗礼を受けた。」と記されています。宣教師は牛窓を「アゴスチニョに属する町」と書き記していますが、当時の行長の所領は小豆島であり、おそらく牛窓は行長の領地ではなく「舟奉行として交易権を掌握している港」という意味であろうと思われます。
 さて、天下をとってしばらくすると、秀吉は浸透していくキリスト教によって民衆や大名が蜂起すること恐れるようになりました。そして1587年にバテレン追放令を出し、影響力が大きい高山右近に棄教を迫りましたが、右近は拒絶したため改易となります。秀吉は行長がキリシタンであることも知らないわけはありませんが、行長は兵站としての実務上見逃され、以後行長は「部下としての勤め」と「キリシタンの生き方」の間で苦しむこととなります。
 秀吉の命をこなしながら、行長は高山右近と宣教師オルガンティーノを小豆島の山中に匿いました。そして1588年、九州の佐々成政を討伐、熊本の南部宇土24万石を地領として与えられましたが、それは秀吉の朝鮮進出の足がかりでもあり、行長にとっては出世の半面、着手したばかりの小豆島「神の王国」からの転封でもありました。
 さらに行長は宇土にて築城に従わなかった天草五人衆を熊本北部を与えられた加藤清正とともに平定し、天草1万石も加増されました。とはいえ、行長は天草ではイエズス会の活動を支援もしています。その後1592年文禄の役では加藤清正に先んじて先鋒を取り、石田三成と共に朝鮮との和平交渉を進めました。続く1597年慶長の役では1598年に秀吉の死により戦いは終結し、殿軍(しんがり)を務めながら撤退をしました。
 その後、行長は家康に仕えるようになりました。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、もともと折り合いが悪い加藤清正が東軍、ともに朝鮮で辛苦を共にした石田三成や以前仕えた宇喜多家が西軍という関係から行長は西軍として布陣。小西軍は数も少なく、訓練もされていないため、石田三成から4000もの援軍を授かり、さらに宇喜多軍のすぐそばではありましたが、ほとんど平地であり場所も決して良いとは言えませんでした。そこに小早川の寝返り。行長は伊吹山に逃げましたが、観念し、草津の村越直吉の敵陣に送られました。行長は京都六条河原で処刑されますが、キリシタンは自殺できないため、切腹はせず、経文も断ったと言われています。
 行長がいなくなった後、小豆島では領主も変わり、キリシタンへの取り締まりが厳しくなりました。特に1630年の小堀遠州による探索会議では相当数の信者が捕らえられ転宗させられたと言われています。遠州といえば、牛窓の本蓮寺の庭は小堀遠州風とも言われていますが、あいにく牛窓は遠州滞在の地としては無理があるため、遠州に習った誰か、間接的な作庭であろうと考えられています。しかし、小豆島でもキリシタンへの取り締まりが厳しくなった頃でもあり、牛窓から遠州の文書が出てくれば、歴史に一石を投じることになるのにと思います。
 現在、小豆島には高山右近の所縁のものはありますが、小西行長のゆかりはわずかに行長の館があったといわれる地名「屋形崎」のみと伝えられています。屋形崎はホテル・オリビアンの近く、牛窓からよく見える場所ですので「牛窓と称するアゴスチニョに属する町」も屋形崎に滞在したならば、行長にも牛窓はよく見えたことでしょう。もしかすると行長はパードレ達と一緒にオリーブの実を味わいながら理想の国づくりを語り合ったかもしれないなど、想像は膨らんでいきます。
 また、日本で最初にオリーブ栽培が成功した地として小豆島が知られていますが、こんにちでは、行長ゆかりの天草でもオリーブが栽培されています。ちなみに天草と同じくキリシタンの一揆で荒廃した島原半島には小豆島からの多くの人が移住しており、このエリアとの関係が濃いのも歴史的に興味深いことです。
 1607年にはイタリアのジェノバで小西行長を主人公とした音楽劇が制作され、教皇クレメンス8世にも、行長の死は惜しまれたと伝わっています。類まれなる立身出世、主君の命と信念の葛藤――日本では、罪人として低く見られ、生涯についてもまるで意図して残さないようにされたかのような行長ですが、信念とその仲間との結びつきと、能力を十分に発揮することを両立させる複雑な生き方を模索した点は現代人の生き方に通じるものがあるようにも思われます。
 また、秀吉が海外進出をもくろんで基盤とした瀬戸内海の港が、後には朝鮮通信使という講和のルートになったことも考えさせられる点だと思われます。いずれにせよ、牛窓にも関わりのあった「海の司令官」のこと、もっと広く、深く、知られるようになると良いですね。

参考資料:『小西行長-「抹殺」されたキリシタン大名の実像-』 鳥津亮二著 八木書店刊

監修:金谷芳寛

写真(海と十字架):写真ACより

写真(牛窓から小豆島を望む)/文 広報室 田村美紀

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